「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:桧ヶ根合戦地

史跡

④ 桧ヶ根合戦地

 「1584天正12年(1584年)4月9日早朝、三河・岡崎城攻撃隊の総大将・三好信吉(のちの豊臣秀次、当時17歳)率いる第4陣が白山林の戦いで徳川軍先遣隊の奇襲に遭い総崩れになった」という知らせが、第3陣の堀秀政隊に入ったのは約2時間後といわれます。

堀隊は直ちに引き返し、三好勢の敗残兵を組み込んで桧ヶ根に陣を敷いて迫り来る徳川軍を待ち構えました。当時の桧ヶ根は標高81.2mで頂上からは敵の進軍動向と、南に先行する味方の池田隊の両軍が同時に見渡せる場所でした。

三好勢を撃破して勢いに乗った大須賀康高榊原康政らの軍は敵陣に突入してしまい、後退できず返り討ちにされて逆に追撃されてしまうという結果を招きます。
徳川軍先遣隊の死者は280余とも500人ともいわれます。

堀軍は、岩作城方向に敗走する大須賀、榊原の兵を一旦は追撃しますが、徳川家康が御旗山に金扇の馬印を掲げたのを確認すると、これ以上の追撃は不利になると察し、楽田城に向かい軍を引き上げました。
これにより、第1陣・池田恒興隊と第2陣・森長可隊は取り残される形となり、家康は全軍をまとめて南下して仏ヶ根に集結させ、決戦にのぞむ体制を整えました

アクセス

住所:
 愛知県長久手市坊の後113

クルマ🚙
 東名高速、名古屋第二環状自動車道 名古屋ICより約3.8km
 
電車🚉
 愛知高速交通東部丘陵線 はなみずき通駅 より約750m

◆白山林古戦場については、こちらもご参照ください。

「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:白山林古戦場
戦いが膠着状態となると羽柴勢は徳川氏の岡崎城を攻めるべく「三河中入り作戦」を開始。白山林で休息中の三好秀次隊に徳川勢は鉄砲を一斉射撃。不意を突かれた秀次隊は壊滅します。長久手の戦いの引き金となった白山林の戦いの古戦場を紹介しています。

◆岩作城については、こちらもご参照ください。

「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:岩作城
岩作城(やざこじょう)は城と言ってもこの地域の有力者・今井氏の居館周辺に堀と土塁を巡らせたものだったと思われています。小牧・長久手の戦い際、城主の今氏氏は岩崎城の戦いに参戦し戦死します。あまり知られてこなかった岩作城を紹介しています。

◆御旗山については、こちらもご覧ください。

「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:御旗山
天正12年(1584)4月9日、色金山に兵を進めていた徳川家康に桧ヶ根の戦いでの敗戦の報が入ると、家康はここ御旗山に進軍して頂上に金扇の馬標を立て豊臣方の動きを牽制しました。決戦にのぞむ家康が陣を敷いた御旗山に触れています。

◆楽田城については、こちらもご覧ください。

「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:楽田城
楽田城は十六世紀前半尾張守護代・織田久長の築城といわれます。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いでは、小牧山城を本陣とした徳川・織田軍に対して、羽柴秀吉は楽田城を本陣としました。秀吉の本陣・楽田城を紹介しています。

◆長久手古戦場については、こちらもご覧ください。

「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:長久手古戦場
池田恒興、森長可に徳川軍出現の報が伝わると、両将は引き返し徳川軍と激突します。戦況は一進一退でしたが森長可が狙撃されると徳川軍優勢となり、池田恒興も討死するなど池田・森勢は壊滅。徳川軍の勝利に終わった長久手の戦いを説明しています。

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