史跡

桶狭間古戦場公園と周辺史跡

桶狭間の戦いが行われたといわれる場所にある「桶狭間古戦場公園」とその周辺にある関連史跡の説明。そして、それらを巡るコースをご紹介しています。
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桶狭間の戦い 大高城/鳴海城と5つの砦めぐり

桶狭間の戦い当時、今川勢の織田勢への最前線拠点大高城と鳴海城。そして織田勢の両城周辺に位置する丸根、鷲津、中島、善照寺、丹下砦を巡るコースのご案内です。
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丹下砦

沿革 鳴海城は山口教継の寝返りによって今川氏の配下となります。織田信長はこれに対抗すべく、鳴海城を取り囲むように丹下砦、善照寺砦、中島砦、の三砦を築き、さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦、鷲津砦を築きました。丹下砦には水野帯刀(...
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善照寺砦

桶狭間の戦いの際、丹下砦に入った織田信長は善照寺砦に兵を集めさせ、中島砦から桶狭間に向けて出陣します。現在は公園となっており遺構を確認することはできませんが、まわりより一段高くなった丘が唯一当時を忍ばせます。そんな善照寺砦のご紹介です。
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中島砦

桶狭間の戦いの際、丹下砦、善照寺砦とまわった信長はこの中島砦から桶狭間に向けて出陣します。現在、一帯は住宅地となり当時を忍ばせる遺構はなく、石碑も個人の敷地内に建てられています。そんな中島砦のご紹介です。
史跡

鳴海城

鳴海城は桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後も、城将・岡部元信は抵抗し続けたことで有名です。そして、元信は主君・今川義元の首と引き換えに開城します。そのような歴史の舞台となった鳴海城の今をご紹介しています。
史跡

鷲津砦

沿革  永禄2年(1559)、織田信長が今川方の最前線の大高城への対抗、今川方に下った山口教継の鳴海城との連絡遮断を目的として、丸根砦とともに整備しました。場所は、丸根砦の北北西600メートル、大高城の北東約700メートルに位置します。 約...
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丸根砦

織田信長が今川勢の大高城への最前線の拠点として鷲津砦とともに築いた砦です。桶狭間の前哨戦として徳川家康(松平元康)が、守備する織田勢を全滅させたことでも有名な砦跡をご紹介。
史跡

大高城

織田勢に対する今川方の最前線の位置にあった大高城。信長は丸根、鷲津砦を築き大高城を牽制します。桶狭間の前夜(諸説あり)、徳川家康は大高城に兵糧を入れ、翌朝丸根砦を落とします。今川VS織田の最前線となった大高城をご紹介しています。
史跡

沓掛城

永禄3年5月18日今川義元は織田勢に圧迫されていた大高城救済、尾張国境強化(諸説あり)の為、沓掛城に入ります。翌19日沓掛城を出立、桶狭間にて休憩中、織田勢に襲われ、討ち取られます。義元が最期の夜を過ごした沓掛城の今をご紹介しています。
源頼朝

幕府の内紛と死してなお幕府を守る頼朝の威光

源頼朝の死後、鎌倉幕府では有力御家人による血で血を洗う権力闘争が勃発します。将軍の命も狙われ、最終的に権力を握るのは北条義時です。北条義時が権力を握るまで、梶原景時、比企義員、畠山重忠、和田義盛らが滅んでいく過程を解説しています。ご覧ください。
源頼朝

命運尽きる!! 頼朝の死

全国の武士を従えるようになった源頼朝。平治の幕府統制体制を整備のために、大姫の入内工作等を通して朝廷との結びつきを強めようとしますが、1199年正月亡くなります。原因は諸説ありますが現在でも謎のままです。晩年の頼朝についての記事になります
源頼朝

富士の巻狩り/曽我事件の影響・・・・・範頼の失脚と老臣たちの出家

富士の巻狩りの最中に突如起きた曽我事件。父の無念を晴らす子供達の仇討と伝わりますが、背後には様々な思惑が動いていた可能性も。 当時の幕府と御家人との関係を巡る状況、次期鎌倉殿への継承問題などを関連させながらこの事件を考察しています。
源頼朝

後白河法皇の死去と平時幕府体制への移行 ・・・ 御家人たちは不満!?

後白河法皇が死去したことで、九条兼実への接近、大姫の入内工作など頼朝の朝廷政策の変更。また、征夷大将軍に就任し、平時での御家人との主従関係の再定義など、頼朝の幕府統制機構の改革について解説しています。
源頼朝

頼朝、唯一の官軍として上洛!ついに後白河と面会!

奥州藤原氏を滅ぼし頼朝は唯一の官軍となります。そして、挙兵以来はじめて上洛を果たします。頼朝は後白河と8度もの会談を行いますが、摂政九条兼実との会談は2度のみです。しかし、頼朝が明かした仰天プラントとは?そのような中後白河が死去します・・・
源頼朝

奥州藤原氏の滅亡

三代に渡って奥州平泉に栄華を誇った藤原氏でしたが、唯一の官軍を目指す頼朝に滅ぼされてしまいます。朝廷の意向を無視して突き進む頼朝、そして追認するしかない朝廷。パワーゲームの視点で藤原氏滅亡の過程を解説しています。
源頼朝

衣川館に散る!! 源義経の滅亡

父・藤原秀衡より、義経を大将軍とし頼朝との対決を命じられた泰衡。しかし、朝廷や頼朝からの義経殺害圧力に屈し、義経を襲撃します。義経は抵抗することなく自ら自害したといわれます。殺害に至る背景、平泉に残る義経ゆかりの地の写真、動画をご覧ください。
源頼朝

頼朝と奥州藤原氏の関係は?

奥州に一大勢力を築いた藤原氏。幼少期を過ごし、逃亡後も頼った義経との関係は? 最後の外敵となった頼朝との関係は? 是非、記事をご覧ください。また、藤原氏が残した史跡は世界遺産に指定されており、記事中のリンクから動画でもご覧ください。
源頼朝

源頼朝の圧力と義経の逃避行

源頼朝は異母弟・義経追討に富士川の戦い以来5年振りに出陣します。義経は立ち向かう姿勢を見せますが、賛同する武士も少なくやむなく都落ちします。なぜ義経に協力する武士が少なかったのか?、義経の逃避行は?、叔父の行家は?是非、記事をご覧ください。
源頼朝

頼朝が義経と決裂に至る経緯

平家滅亡に圧倒的な活躍をした義経。しかし、東国武士の中には独断での行動や功績のひとり占め等に対して不満を持つ者も少なくありませんでした。頼朝と義経の関係に後白河の存在も影響し、決裂への道を辿ります。決裂に至る背景や両者の心情を解説します。
徳川家康

徳川家康 徳川公儀の諸制度と家康の最期

豊臣氏の滅亡後、家康は「武家諸法度」、「禁中並公家中諸法度」、「諸宗諸本山諸法度」を発し、徳川公儀の確立を明確化します。全てを成した後、家康は元和二年(1616)四月十七日、七十五歳でその生涯を閉じます。家康最期の活動を解説しています。
徳川家康

徳川家康 豊臣氏滅亡への家康の戦略とは

片桐且元暗殺計画を知った家康は、豊臣方との対決を決意します。真田信繁(幸村)らの奮戦はありましたが、大阪冬の陣・夏の陣を通して豊臣氏を滅亡に追い込んだ家康の戦略を解説しています。
徳川家康

徳川家康 大阪冬の陣に至る経緯とは

慶長十六年三月、二条城での対面で秀頼が家康に臣従しましたが、秀頼は以前として大阪城に居り、他の大名に比べて優越した立場にありました。そこに飛び込んできた方広寺の鐘銘と棟札問題。豊臣氏を滅亡に追い込む大阪の陣に至る過程を解説しています。
徳川家康

徳川家康 大御所政治の外交政策とキリスト教への対応

秀忠に将軍職を譲り、徳川氏の世襲体制を確立し、大御所となる家康。家康がヨーロッパ、朝鮮、琉球等の諸外国に対してとった政策とは?また。諸外国と通称を行う上で重要となってくるキリスト教への対応は?家康の外交・宗教政策を解説しています。
徳川家康

徳川家康 家康はいかに大名を統制し、秀頼と付き合ったか。

家康は御手伝普請を通して、江戸城や駿府城の普請に諸大名を動員し、統制も進めていきます。さらに、天皇の譲位や即位を通して秀頼よりも優位な立場となり、朝廷にも介入していきます。徳川公儀がどのように優越する存在となった過程を解説しています。
徳川家康

徳川家康 全国統治への布石と征夷大将軍就任

家康は慶長八年(1603)ついに征夷大将軍に就任します。そして慶長十年将軍職を秀忠に譲り、徳川氏が将軍として政権を世襲することを天下に知らしめました。家康が行った全国統治へ向けた諸政策、家康と豊臣秀頼との関係を解説しています。
徳川家康

徳川家康 関ヶ原後の諸大名の処遇と徳川体制への布石

関ヶ原の合戦に大勝した家康は戦後処理を進めます。西軍の主要メンバーは戦死した大谷吉継を除き、市中引き回しの上処刑。東軍の主力であった豊臣大名は大幅な加増となりましたが、遠隔地へと転封となります。家康がいかに自らの体制を築いていったか解説しています。
徳川家康

徳川家康 小山評定から関ヶ原へ

家康が会津の上杉征伐へ向かっている最中、石田三成が挙兵します。家康は諸将を呼び寄せた小山評定で三成との決戦に決します。福島正則や池田輝政は岐阜城を落とし、家康も合流し、関ヶ原に向かいます。三成の挙兵から関ヶ原に至る過程を解説しています。
徳川家康

徳川家康 関ヶ原に向けて・・・上杉討伐と三成の挙兵

慶長五年(1600)五大老の一人であった上杉景勝に謀叛の嫌疑が掛かり、さらに、石田三成が挙兵します。上杉討伐に出馬中の豊臣諸将は小山(栃木県小山市)に集結。所謂「小山評定」で三成との決戦が決定。関が原合戦に向かう過程を解説しています。
徳川家康

徳川家康 秀吉の死と家康の権力増大

秀吉の死後、前田利家の死、石田三成、浅野長政の失脚や毛利輝元、前田利長(利家嫡男)の弱体化によって、家康の権力が増大していきます。五大老・五奉行体制の中で家康がどのようにして権力を握っていったか。その過程を解説しています。
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桶狭間古戦場公園と周辺史跡

桶狭間の戦いが行われたといわれる場所にある「桶狭間古戦場公園」とその周辺にある関連史跡の説明。そして、それらを巡るコースをご紹介しています。
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丹下砦

沿革 鳴海城は山口教継の寝返りによって今川氏の配下となります。織田信長はこれに対抗すべく、鳴海城を取り囲むように丹下砦、善照寺砦、中島砦、の三砦を築き、さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦、鷲津砦を築きました。丹下砦には水野帯刀(...
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善照寺砦

桶狭間の戦いの際、丹下砦に入った織田信長は善照寺砦に兵を集めさせ、中島砦から桶狭間に向けて出陣します。現在は公園となっており遺構を確認することはできませんが、まわりより一段高くなった丘が唯一当時を忍ばせます。そんな善照寺砦のご紹介です。
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中島砦

桶狭間の戦いの際、丹下砦、善照寺砦とまわった信長はこの中島砦から桶狭間に向けて出陣します。現在、一帯は住宅地となり当時を忍ばせる遺構はなく、石碑も個人の敷地内に建てられています。そんな中島砦のご紹介です。
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鳴海城

鳴海城は桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後も、城将・岡部元信は抵抗し続けたことで有名です。そして、元信は主君・今川義元の首と引き換えに開城します。そのような歴史の舞台となった鳴海城の今をご紹介しています。
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鷲津砦

沿革  永禄2年(1559)、織田信長が今川方の最前線の大高城への対抗、今川方に下った山口教継の鳴海城との連絡遮断を目的として、丸根砦とともに整備しました。場所は、丸根砦の北北西600メートル、大高城の北東約700メートルに位置します。 約...
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丸根砦

織田信長が今川勢の大高城への最前線の拠点として鷲津砦とともに築いた砦です。桶狭間の前哨戦として徳川家康(松平元康)が、守備する織田勢を全滅させたことでも有名な砦跡をご紹介。
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大高城

織田勢に対する今川方の最前線の位置にあった大高城。信長は丸根、鷲津砦を築き大高城を牽制します。桶狭間の前夜(諸説あり)、徳川家康は大高城に兵糧を入れ、翌朝丸根砦を落とします。今川VS織田の最前線となった大高城をご紹介しています。
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沓掛城

永禄3年5月18日今川義元は織田勢に圧迫されていた大高城救済、尾張国境強化(諸説あり)の為、沓掛城に入ります。翌19日沓掛城を出立、桶狭間にて休憩中、織田勢に襲われ、討ち取られます。義元が最期の夜を過ごした沓掛城の今をご紹介しています。
史跡めぐり

源頼朝ゆかりの地を巡る ~静岡県富士市・清水町~

石橋山の戦いに敗れ、安房で再起し鎌倉入りを果たした頼朝。次は富士川の戦いです。水鳥が飛び立った音を源氏の攻撃と勘違いした平氏が逃げ出し戦いは終わります。富士川の戦いにまつわる史跡。そして、義経との対面を果たした対面石をご紹介しています。