史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:高森恵光寺の塚

長篠の戦いのとき、高森恵光寺宗賢は、武田信実の指揮下に入り、鳶ヶ巣山砦を守備していたようです。しかし、酒井忠次の奇襲攻撃を受け、下山して設楽原の武田勢と合流しますが、子の恵光寺快川はじめ、主従ことごとく戦死したと推定されています。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:真田兄弟の墓

真田幸村の父・昌幸の兄である信綱と昌輝は、長篠の戦いで、馬場信春、土屋昌続らと右翼に構え、丸山砦の佐久間信盛との戦いで討死しました。真田源太左衛門尉信綱、真田兵部丞昌輝の名が彫られた墓と共に奮戦した家臣の墓も同じ場所にあります。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:馬場信春の墓

武田四天王の一人。川中島の戦い、駿河侵攻、三方ヶ原の戦い等で武功をあげる。信玄の死後は勝頼を補佐する。長篠の戦いでは武田軍の右翼に陣取り奮戦するが、勝頼に撤退を進言し、自らは殿を務めた。勝頼撤退を見届けると命を落とした。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:鳶ヶ巣山砦

天正3年(1575)の長篠の戦いの際、武田軍は鳶ヶ巣山砦をはじめ5つの砦を築き長篠城を監視しました。長篠城救済のため酒井忠次が、四千の兵を率いて砦を奇襲。激戦となりますが、多くが討死して砦は落城。長篠城の城兵と合流することができました。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:医王山 武田勝頼本陣跡

武田勝頼本陣は、天正3年(1575)の長篠の戦いの際、勝頼が医王寺の裏山に陣城として築きます。 標高約120mに位置し、 約600m南方に位置する長篠城を監視し、また、武田軍の各陣を確認できました。さらに長篠救援軍の動きも確認できました。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:医王寺

長篠山医王寺は永正11年(1514)の創立。曹洞宗で薬師如来を本尊とします。天正3年(1575)長篠の戦いの時、武田勝頼が本陣を背後の山に置きます。出撃前夜、夢に現れた老人がの腕を切り落としたため、境内の葦が全て片葉になった伝説が残ります。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:信玄塚(小塚)

天正3年(1575)の長篠の戦いの戦死者を埋葬した塚とされます。武田軍は1万人が、織田・徳川連合軍は5000人が犠牲になったといわれます)。築いた塚の上に松を植え、徳川・連合軍側の死者を弔った方が小塚と呼ばれたとも伝承されます。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:馬防柵

武田騎馬隊の突進を防ぐだけでなく、火縄銃を乗せて狙撃の命中精度を上げ、連合軍を勝利へと導きました。連吾川沿いに全長2キロメートル、三重で作られていたようで、使われた丸太は信長の領地・岐阜から運び込まれ、現地調達はしていないといわれます。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:徳川家康本陣跡

長篠の戦いのとき、徳川家康は連吾川から西に300m離れた高松山に本陣を構えたと伝えられています。織田・徳川連合軍は徳川家康と佐久間信盛が最前線に陣を構え、対峙する武田軍は前線に馬場信房らの武田四天王が布陣し、背後に武田勝頼が本陣を置きました。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:岡崎信康本陣跡

長篠の戦いのとき、徳川家康の嫡男である岡崎(松平)信康は、石川数正や平岩親吉と共に松尾神社に布陣しました。家康の本陣から400mほど後方、織田信長の本陣の南側に位置します。この時、信康17歳。後に信長の命によって自刃させられています。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:織田信忠本陣跡

天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いのとき、織田信忠は野邊神社に陣所を置きます。信長の南側、松平信康の後方に位置します。信忠はこの時、19歳。この後、岩村城や甲斐を攻め、武田家を滅ぼして織田家当主として磐石の地位を築いていきます。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:羽柴秀吉本陣跡

長篠の戦いの時、羽柴秀吉は織田信長戦地本陣の北側、織田・徳川連合軍の最左翼に陣を構えます。この一帯を「はたぼこ」と今もその名を伝えています。戦いの前年秀吉は、木下から羽柴に改めたため、「木下秀吉陣地」と「羽柴秀吉陣地」の両方の石碑があります。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:茶臼山 織田信長本陣跡

天正3年(1575年)5月20日。織田信長は設楽原の戦いに備え、最初の本陣(極楽寺跡)で軍議を開いた後、茶臼山に本陣を移し、織田・徳川連合軍の指揮をとりました。新東名長篠設楽原下りPAからも行ける本陣跡を写真とともに触れています。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:極楽寺 織田信長本陣跡

織田信長は、天正3年(1574年)5月15日に徳川家康の岡崎城に入り、長篠城の武田軍包囲網を抜け出した鳥居強右衛門の救援要請を聞き、18日にのまずこの極楽寺跡に着陣します。最初に設楽原に着陣した極楽寺跡を写真とともに触れています。
史跡

「長篠の戦い」の関連史跡:鳥居強右衛門の墓

天正3年武田勢に長篠城が包囲されると、鳥居強右衛門は城を脱出して徳川家康に援軍を求めた。しかし、武田軍に捕まり嘘を強要されますが、援軍が来ることを伝え、その場で磔に処せられたといいいます。新昌寺の強右衛門の墓を写真とともに触れています。