豊臣秀長 後継者の秀保とその後の豊臣家

豊臣秀長

秀長の後継者

秀長の後継者・秀保

秀長には実子がいなかったため、晩年に秀保という養子を迎えていました。

秀保は、天正7年(1579年)に瑞龍院(秀吉の姉)と三好吉房の間に生まれます(3男)。
当時、瑞龍院は46歳になっており、秀保は養子であったと思われます。

天正16年(1588年)1月に秀長の養子となります。4月には、縦4位下侍従となり聚楽第の行幸に参加します。
天正19年(1591年)1月12日には秀吉の年頭の参内に「清華成」の家格で相伴。同月に長の娘と婚約を交わしています。

1月22日に秀長が亡くなると、秀保はわずか13歳で大和国・紀伊国を治める大名となり、郡山城を拠点に政治を行います。
その後も4月9日には正4位下に叙され、9月21日には参議に任官。
翌天正20年(1592年)1月29日には縦三位権大納言へと昇進します。
          ▶郡山城(奈良県大和郡山市)

👉豊臣一門の筆頭に位置付けられ、名実ともに秀長の後継者としての地位を確立します。

秀保の活躍と突然の死

天正20年(1592年)3月、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に伴い、秀保も1万の兵を率いて名護屋城に入ります。
直接渡海はしなかったものの、軍船の準備や部下の派遣などで戦争を支えました。

文禄2年(1593年)10月の帰国後も秀保は政治・儀礼の場で活躍し、秀次や秀吉からも一定の信頼を受けていました。

しかし、文禄4年(1595年)4月16日、病(疱瘡または麻疹に類した病)に倒れ、わずか17歳で亡くなってしまいます。

秀保に実子がいなかったため、秀長の家系はここで断絶。
このことは、豊臣家にとって大きな痛手でした。

秀吉の後継者

関白となった秀次

秀吉は天正17年(1589年)に側室の淀殿との間に鶴松という男子を設けました。
そこで秀吉は、秀長・秀次・秀勝といった近親男性が後見役となり、鶴松成長まで政権を支える体制を想定していたと思われます。

しかし、鶴松は病弱で天正19年(1591年)8月にわずか2歳で亡くなってしまいます。
同じ年の1月には秀長も亡くなっており、豊臣政権は有力な支えと後継候補を同時に失うことになってしまします。

こうした中で、後継候補として浮上したのが、秀吉の甥である秀次と弟の秀勝でした。

👉瑞龍院(秀吉の姉)と三好吉房の間の子  長男:秀次、次男:秀勝、三男:秀保

秀次は秀長とともに各地で政務や軍事を経験しており、秀吉からの評価も高かったと考えられます。
そこで秀吉は、正式な後継者として秀次を立てる決断をします。

秀次は天正19年(1591年)11月に権大納言、12月には内大臣、さらに関白に就任します。
これにより秀次は豊臣家の当主(氏長者)となり、秀吉は自らを「太閤」と名乗り、表向きは政権の第一線から退き、院政的な立場から政権を統制する体制を築きました。
      ▶豊臣秀次像(滋賀県近江八幡市)

その後の豊臣家

秀次事件と豊臣政権の動揺

文禄4年(1595年)7月、秀吉は関白・秀次に謀反の疑いをかけ、切腹を命じます。
秀次は高野山に追放され、自害します。
さらに秀次の妻子までもが処刑され、秀次の血筋は完全絶たれました。

この事件は、政権内の権力闘争というよりも、秀吉による後継体制の強制的再編と捉えることができます。
秀吉は有力大名たちに連署させた「御掟」を出し、自らの権威と政権秩序を再確認させます。
そして、後継者として正式に位置づけられたのが、文禄2年(1593年)に誕生した秀頼でした。

秀吉の死と豊臣家の滅亡

その後も秀吉は、慶長2年(1597年)1月に再び朝鮮出兵(慶長の役)を行いますが、戦況は思わしくはありませんでした。

秀吉自身も病に倒れ、慶長3年(1598年)8月に亡くなります。
秀頼はまだ幼く、政権の実権は徳川家康が握るようになっていきます。

豊臣から徳川へ

慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで、家康が勝利し江戸幕府を開くと、豊臣家は次第に立場を失っていきました。   

      ▶関ケ原決戦地(岐阜県関ケ原町)                                                              

慶長19年(1614年)からの大坂の陣で、秀頼と淀君は自害します。
その後、秀頼の子・国松も捕らえられ処刑されます。

    ▶秀頼・淀君自刃の地(大阪市中央区)


姉の天秀尼は、出家することを求められ鎌倉の東慶寺に入りますが、正保2年(1645年)に亡くなり、秀頼の家系は断絶。豊臣家は滅亡しました。

まとめ

  • 豊臣政権後期は、後継者問題が最大の政治的不安要素であった。
  • 鶴松と秀長の死により、秀次が関白・後継者となった。
  • 秀保は秀長後継者として、豊臣一門の重要な支柱に位置付けられたが、17歳で病死した。
  • 秀次事件は、秀吉による後継体制の強制的再編と理解できる。
  • 秀吉の実子・秀頼の後継体制は脆弱で、最終的に豊臣家は滅亡した。
  • 秀吉の死後、徳川家康が台頭し最終的に豊臣氏は滅亡した。

【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク

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