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武田信玄の西上作戦(たけだしんげん の せいじょうさくせん)
元亀3年(1572年)に入ると、武田軍は遠江・三河への出兵が相次ぎ、徳川家康とその背後にいた織田信長との対決が始まった。同年10月には、信玄自ら大軍をもって甲府を出発し、西上作戦を開始した。
12月には家康の居城である浜松に近づき、三方ヶ原で家康・信長の連合軍を打ち破った。その後進んで三河へ侵入し、徳川方の諸城を相次いで攻め落とした。しかし、翌元亀4年(1573年)4月、三河野田城(愛知県新城市豊島本城)を包囲中の陣中で病床に伏し、いったん甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷の駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)で4月12日、53歳をもって病死した。



信玄の死は信玄の遺言どおりその子勝頼によって3年間隠された。
天正4年(1576年)4月に本葬が営まれ、恵林寺(山梨県甲州市)が墓所と定められた。
法名は恵林寺殿機山玄公大居士。
▶恵林寺

その後、勝頼によって高野山へも分骨が行われ、その際、信玄の画像や遺品などが奉納されている。信玄の跡目は四男の勝頼が継ぐことになった。
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)
寿永4年(1185)壇ノ浦で行われた源平最後の合戦。平氏は源義経を総大将とする源氏の軍に敗れ、安徳天皇は二位尼(平時子)とともに入水、対象平宗盛も捕らえられ、平氏は滅亡。
第一次木津川の戦い(だいいちじきづかわのたたかい)
天正4年(1576年)に毛利氏と織田氏との間に起こった海戦である。戦闘は主に大阪湾木津川河口で行われた。
戦国時代、織田信長と本願寺顕如との間で十年にわたって争われた石山合戦における緒戦の一つ。毛利方の水軍の使用する焙烙火矢の前に織田方の水軍は壊滅的な打撃を受け、石山本願寺への兵糧など物資の搬入という目的を毛利方が果たす結果となった。
第一次長島侵攻(だいいちじながしましんこう)
元亀2年(1571年)2月、近江国・佐和山上の磯野員昌が信長に城を明け渡して退却。
5月には横山城の木下秀吉が、約500の寡兵で浅井井規率いる浅井勢約5000を破るなど、近江では織田軍が優位に立った。ここで信長は北伊勢への出陣を決める。
5月12日、信長は5万の兵を率いて伊勢に出陣。軍団は三手に分かれて攻め入った。
- 信長本隊、津島に着陣。
- 佐久間信盛軍団(尾張衆中心)、中筋口から攻め入る。
- 柴田勝家軍団(美濃衆中心)、西河岸の太田口
織田軍は周辺の村々に放火。5月16日にはひとまず軍を退こうとした。
これを見た一揆勢は山中に移動し、撤退の途中の道が狭い箇所[9]に弓兵・鉄砲兵を配備して待ちうけた。信長本隊と佐久間軍はすぐに兵を退くことが出来たが、殿軍の柴田勝家が負傷。勝家に代わって殿をつとめた氏家卜全と、その家臣数名が討ち死にした。
第二次木津川の戦い(だいにじきづかわのたたかい)
天正6年(1578年)11月6日に毛利水軍と九鬼水軍との間で起こった海戦であり、織田信長と本願寺顕如との間で争われた石山合戦における戦の一つ。
天正4年、第一次木津川の戦いで大敗した織田信長は、九鬼嘉隆の進言をいれ、鉄の装甲を備えた大安宅船の建造し勝利した。その大局にも影響を与えたとされる。
ち
つ
て
天正地震(てんしょうじしん)
天正地震は、安土桃山時代の天正13年11月29日(1586年1月18日)に日本の中部地方で発生した巨大地震。
2日前の11月27日(1月16日)にも地震の記録があり、27日に越中・飛騨(現在の富山・岐阜)を震源とするM6.6-7.0の地震、29日に美濃・尾張・伊勢(現在の岐阜・愛知・三重)を震源とするM7.8-8.0の地震が別々に発生したとする説と、29日にM8.2の巨大地震が単一で発生したとする説がある。
天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)
天正10年(1582年)の織田信長による武田征伐によって大名としての武田氏が滅亡し、その直後に本能寺の変で信長が死亡したため、織田氏の領国支配体制が固まっていなかった旧武田領国(甲斐・信濃・上野西部)は混乱し、空白状態となった。
この旧武田領国をめぐって、本能寺の変後に織田氏との同盟を破棄した後北条氏(北条氏政・氏直)、織田氏の同盟者で武田征伐で駿河を得たばかりだった徳川家康、武田氏の滅亡直前まで武田勝頼と同盟を結んでいた越後の上杉景勝が争い、そこに武田氏の傘下に入っていた木曽氏や真田氏ろの国衆、旧信濃守護の小笠原氏などの動きが絡んで起きた争乱である。
10月になって織田体制の織田信雄・織田信孝や、羽柴秀吉から和睦の勧告があり、10月28日、織田信雄を仲介役として北条と家康の間で講和が結ばれた。講和の条件は以下のとおりであった。
・氏直に家康の娘・督姫を娶らせる
・甲斐、信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ切り取り次第とし、相互に干渉しない
