出来事 な行

長島一向一揆(ながしまいっこういっき)

元亀元年(1570年)ごろから1574年(天正2年)にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起した一向一揆。織田信長との間で大きく分けて三度に渡る激しい合戦が起こった。
・第一次侵攻(元亀2年(1571年)5月)
 退却時に柴田勝家が負傷、氏家卜全が討死
・第二次侵攻(天正元年(1573年)8月)
 またもや退却戦で殿軍の林通政が討ち取られる
・第三次侵攻(天正2年(1574年)7月)
 水軍も参加し、一揆勢を殲滅。豊臣秀長が丹羽長秀らと先陣を務める

根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)

天正15(1587年)年4月17日に日向国根白坂で行なわれた合戦で、島津義久が九州東部方面軍であり高城を包囲する秀長の軍勢に決戦を挑んだ戦い。
根白坂は高城の南側に位置する坂で、島津軍が高城を救援するなら必ず通らないといけないルートだった。そのため前述のように、島津軍の後詰(救援)を予想していた秀長らは根白坂に砦を構築し、要塞化して守備を固めていた。
に戦線は膠着状態に陥ったが、藤堂高虎、宇喜多秀家らの救援により義久軍を撃破した。

根白坂の戦いから10日も経たぬうちに、九州西部では豊臣本隊が島津氏の本国である薩摩へと侵攻し始めていた。
根白坂での主力決戦に完敗した島津氏は軍を立て直す暇もなく、義久は戦意を失い剃髪して龍伯と号した上で、5月8日に豊臣秀吉に降伏した。その後、龍伯はあくまで徹底抗戦をしようとした兄弟の義弘や歳久、家臣らを説得し、島津氏が完全に秀吉に降伏したのは、5月下旬のことである。

野田・福島の戦い

元亀元年(1570年)8月26日から9月23日にに三好三人衆と幕府・織田信長軍の間で、野田城、福島城周辺で行われた戦い。この後10年にも亘る石山合戦の端緒といえる戦いである。

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