豊臣秀長 病とともに過ごした晩年

天正16年(1588年)~17年の秀長は、外様大名の接待や秀吉への取次、政権の実務、領国運営など多忙を極めていました。
しかし、天正17年末頃から病に悩まさせれ、天正19年(1591年)1月22日に死去するまでの最後の1年余りは、闘病生活を送ることになります。

病気との戦い

有馬温泉で湯治

天正17年(1589年)10月29日、秀長は上洛します。
12月に北条氏の当主・北条氏政の上洛予定があり、秀吉は東国支配について秀長の意見を、求めたと考えられています。

その後も、秀長は11月4日から12月3日まで摂津有馬温泉で湯治を行います。
前年も湯治していたことから、この頃は既に思い病を抱えていたと思われます。

京都での滞在を継続

京都に戻った後も快復は十分ではなく、郡山城(大和国)に帰ることができず、京都に滞在して療養を続けました。

👉朝廷や寺社からも見舞いや祈祷が行われ、秀長がいかに重要な人物であったかが分かります。

病中にありながらも、徳川家康の嫡男・秀忠(当時は長丸)の上洛を取り次ぐなど、政治的役割は果たしていました。

伊賀国を与えられる

天正17年(1589年)末、秀長は伊賀国が与えられ、秀長の領国は大和・紀伊・和泉・伊賀の4ヵ国 約83万石に達しました。
これは伊賀で起こった筒井家の内紛を抑えるため、秀長の統治力に期待した措置でした。

小田原征伐には不参加

小田原合戦不参加

年を越しても秀長の病状は快復しなかったようで、天正18年(1590年)正月の秀吉への年頭挨拶には出仕しておらず、代わりに養嗣子秀保が出仕しています。

天正18年3月1日、秀吉は北条氏討伐のため小田原へ出陣しますが、秀長は参加できませんでした。
これまで秀吉の主要な合戦すべてに参加してきた秀長にとって、非常に無念なことであったと考えられます。

              ▶小田原城

👉この間も、興福寺で何度も病状快復のための祈祷が行われています。

3月3日には死亡説が流れるまでになりますが、18日には徳川家康から病状快復を喜ぶ症状が出され、23日には在京していた島津竜伯(義久)から屋敷を訪問され見舞われているなど、病状は快復するようになっていたと思われます。

大和へ帰還

天正18年(1590年)4月15日、秀長は大和に帰還します。

18日、秀長は聚楽第在番の家老・杉若無心らに大政所の屋敷警固の指示を出しています。
この症状には秀長の花押が据えられており、花押が据えられた書状は9ヵ月ぶりとなるので、この間は花押が書けないほどの病状であったと思われます。

👉この間も秀長息災のための祈祷は行われ、、5月には大政所も郡山に赴いています。

小田原合戦の勝利を受けて最後の上洛

最後の上洛

天正18年7月9日、秀吉から小田原城攻略を伝える4日付の書状が届けられます。
(北条氏の実際の降伏は5日)

👉小田原合戦勝利の場に秀長が立ち会えなかったことは、とても残念であったに違いありません。

7月25日に秀長は、秀吉を迎えるために上洛
体調は万全ではなかったと思われますが、「天下統一」という偉業を達成した秀吉を、出迎えないわけにはいかなかったのでしょう。

秀吉の期間は1ヵ月先の9月1日になります。
その間、聚楽第屋敷で茶会を催したり、御所に参内するなどしています。
秀吉の帰還に際して、どのような行動をとったのかは不明です。

秀吉と最後の別れ

病状の悪化

秀長は9月19日まで京都に滞在しますが、病気が再発したため郡山に帰還します。
その後、病気は悪化します。
10月には大和の自社で大規模な祈祷が行われ、秀吉自身も深く心配します。
しかし、秀長は伊達政宗など諸大名の取次も続けており、最後まで政権運営に関わろうとしていた姿が伺えます。

秀吉との別れ

10月19日、秀吉が郡山に見舞いに訪れます。
羽柴秀次はじめ諸大名も同行していましたが、秀長が秀吉と対面できたのかは分かりません。
この時、秀長が死去したため、「秀吉は朝食が喉を通らないほど悲しみに暮れた」という話が語られています。
秀長が危篤になっていたとしたら、秀吉との最後の別れをきちんと行えなかったかもしれません。

20日に秀吉は秀長の死去に備えて、養嗣子の秀保には大和・紀伊2ヵ国を相続させ、秀長側近の横浜良慶に秀保を支えながら内政の万事を委ねることを指示して、秀次を郡山城に残して京都に帰還します。
この後、秀吉の再度の訪問は行われませんでした。

11月以降も一時的な回復と悪化を繰り返し、多くの寺社で祈祷が行われます。
島津義久・義弘兄弟も見舞いに訪れましたが、対面はかないませんでした。

秀長の最後

最後の活動記録

天正19年(1591年)正月、秀長は郡山で正月を迎えます。
病状は落ち着いていたのか、1月10日に紀伊熊野那智の廊坊に書状を出して那智山への還住を認め、同社の運営を約束しています。

👉これが、秀長の具体的な行動を示す最期になっています。

その直後、秀長は重態におちいったとみられます。
秀長の死が予想されたためか、家督継承を円滑に進めるために秀長の長女と養嗣子・秀保の婚約が行われています。
自身の死によって起こり得る羽柴大和大納言家の同様に備えて、秀保を自分の後継者として揺るぎないものする狙いがあったと思われます。

秀長の死去

そして、天正19年1月22日に秀長は52歳で死去します。

秀吉は深く悲しみ、秀保に対して領地の継承を正式に認めます。
29日に行われた葬儀には、奈良・京都・高野山などの各地から僧侶や領民が集まり、その数は20万人に及んだと伝えられます。
これは、いかに秀長がいかに多くの人々から信頼され、尊敬されていたかを示しています。

戒名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」

👉秀吉によって秀長の遺産が調査され、金子が5万6千余(約224億円)、銀子が2間(3.6m)四方の部屋に山のように積まれ、銀貨は何万貫文あるか数えられないほどであったといいます。

秀長の死は豊臣政権にとって大きな損失であり、のちの政権不安定化の一因になったとも考えられています。

こちらから、豊臣家の家系図もご参照ください。

まとめ

  • 秀長は天正17年頃から重い病気にかかり、最期の1年余りは闘病生活となった。
  • 病中でも政治・外交の調整役として重要な役割を果たした。
  • 伊賀国を加え最大83万石の大名となるが、小田原合戦には参加できなかった
  • 秀吉の「天下統一」を見届けたものの、その後病状が悪化した。
  • 後継者・秀保の体制を整えたうえで、天正19年1月22日に死去。
  • 盛大な葬儀が行われ、秀長の政治的功績と人望の大きさが示された。

【引用・参考】
・PHP文庫 堺屋太一著 全1冊 豊臣秀長
・筑摩書房 渡辺大門 羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯
・株式会社平凡社 黒田基樹著 羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像
・NHK出版 柴裕之著 秀長と秀吉 「豊臣兄弟」の天下統一
・Wikipedia
・コトバンク

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