豊臣秀長

史跡巡りコース

豊臣秀長ゆかりの地を巡る ~奈良県大和郡山市~

秀長が四国征伐を終えると、秀吉から大和国(奈良県)を拝領します。秀長は郡山城を居城に定め死去するまで豊臣政権中枢の仕事、大和・紀伊などの統治を進めていきます。ここでは奈良県大和郡山市にある豊臣秀長ゆかりの史跡を紹介しています。
豊臣秀長

豊臣秀長 後継者の秀保とその後の豊臣家

秀長の死後、養子の秀保が家督を継ぎますが、17歳で秀保は病死し家系は断絶します。豊臣政権も幼少の秀頼を中心とした体制は不安定化し、秀吉死後に徳川家康が台頭。最終的に豊臣家は滅亡します。秀長死去後の後継者・秀保、豊臣家に触れています。
豊臣秀長

豊臣秀長 病とともに過ごした晩年

秀長は晩年、病の中でも取次や政務を担い続けます。秀吉の天下統一後は病状も悪化。後継の秀保体制を整え、天正19年(1591年)1月22日に郡山城で亡くなります。その死は豊臣政権に大きな損失となります。秀長が死に至る最晩年に触れています。
豊臣秀長

豊臣秀長 小田原征伐の背景と展開

秀吉は北条氏に従属を迫るも、北条氏は応じませんでした。名胡桃城事件を契機に秀吉は自ら出陣し小田原城を包囲。約3ヵ月の籠城戦の後、北条氏は降伏。秀吉は関東を掌握し、全国統一をほぼ完成させます。小田原征伐に至る経緯と戦いの過程に触れています。
豊臣秀長

豊臣秀長 取次と領国運営で多忙を極める

天正16年(1588年)から17年の秀長は、豊臣政権での取次として接待や交渉を担い、領国でも紀伊制圧や寺社の造営・修造を進め、町への貸し付けといった政策も進めていきました。中央と地方の両面で政権を支えた秀長の多忙な日々について触れています。
豊臣秀長

豊臣秀長 権大納言就任と闘病の始まり

秀長は九州征伐後、秀長は権大納言に昇進し豊臣政権の中枢を担います。しかし、多忙な日々を送る秀長は発病し以後病に悩まされるようになっていきます。そのような状況でも秀長は秀吉を支えていきます。豊臣政権の権力構造、秀長の発病について触れています。
豊臣秀長

豊臣秀長 九州征伐

豊臣秀吉は命令に従わない島津氏追討のために九州征伐を開始。秀長らが出陣、根城坂の戦いでこの戦いの勝利を決定づけます。島津氏は降伏し薩摩一国を安堵され豊臣政権に服属し、九州の再編が進められます。秀吉・秀長の九州征伐について触れています。
豊臣秀長

豊臣秀長 九州征伐に至る過程

天正14年豊臣秀吉は九州の統一に着手します。九州では大友氏・島津氏・竜造寺氏が争い、秀吉は停戦命令と九州分国案で調停を図ります。秀長も交渉しますが、島津氏は従わず豊後へ侵攻。調停が破綻し、秀吉が九州征伐に進んでいく過程について触れています。
豊臣秀長

豊臣秀長 徳川家康の上坂・秀長との関係

豊臣秀吉と徳川家康の関係は一時軍事衝突の局面を迎えますが、天正地震の影響等により、秀吉は従属へ方針転換します。ここでも秀長は両者の調停など取次の責務を果たしています。家康の臣従など秀長が豊臣政権で重きを成していく過程について触れています。
豊臣秀長

豊臣秀長 秀長の紀伊平定と支配

秀長が紀伊・和泉を領国として与えられたのは、紀伊攻めの最中でした。天正13年(1585年)4月上旬頃と考えられています。紀伊北部の戦いは4月下旬には一旦終結しましたが、紀伊南部や熊野地方には旧勢力や反対勢力が残っており、決して安定した状態で...
豊臣秀長

豊臣秀長 秀吉の関白就任と秀長の大和拝領

四国征伐の最中、秀吉は関白に就任し、正親町天皇から「豊臣」のという本姓を下賜されます。そして、越中を平定すると畿内周辺の国替えを実施し、秀長に大和国を与えます。関白就任、豊臣姓下賜の意味と秀長に大和国を与えた目的について触れています。
豊臣秀長

豊臣秀長 秀吉の四国征伐の歴史的意義と展開

長宗我部元親は、賤ケ岳の戦いでは柴田勝家、小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康に接近して四国での勢力の維持・拡大を図ったため、秀吉との対立は決定的になっていました。総大将となった秀長の行動を中心に合戦中の出来事も含めて触れています。
豊臣秀長

豊臣秀長 和泉・紀州征伐と支配の開始

小牧・長久手の戦いに勝利した秀吉は、織田信雄に与した勢力の鎮圧を進めます。最初に雑賀一揆と紀伊根来寺の和泉・紀伊へ侵攻。制圧後両国は秀長に与えられます。惣国秩序を否定して、中央集権支配へと進む和泉・紀伊侵攻と秀長の統治について触れています。
豊臣秀長

豊臣秀長 小牧・長久手の戦い

賤ケ岳の戦い後、織田信雄は政務を主導する秀吉と対立、徳川家康も秀吉の関東政策介入によって対立し、両者は秀吉と衝突します。秀吉が勝利し天下人の立場を確立した小牧・長久手の戦いを秀長の活躍を含めて触れています。
豊臣秀長

豊臣秀長 賤ケ岳の戦い後の秀長の播磨・但馬支配

賤ケ岳の戦い後の領地配分で秀吉は摂津大坂城に新たに拠点を定め、姫路城には秀長が入ります。これにより秀長は播磨を与えられ、但馬と合わせた二か国を領国とします。秀長の播磨、但馬支配の実態。そして毛利氏との外交交渉について触れています。