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「長篠の戦い」の関連史跡:小幡信貞の墓

小幡信貞のお墓があるのですが・・・。信貞は討死せずに生き残りました。大怪我はしたみたいなのですが武田領に戻りました。滝川一益、北条氏邦の配下となり、最後は真田昌幸の元へ行き、天正20年(1592年)52歳まで生きました。
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「長篠の戦い」の関連史跡:土屋昌次の墓

長篠の戦いで、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らと撤退を進言したと言われるが、武田勝頼は決戦を決定する。戦が始まると、真田信綱・昌輝らと右翼の天神山に陣を敷いた。大宮前激戦地で織田勢の三重柵の二重まで突破したが、一斉射撃を受け戦死したという。
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「長篠の戦い」の関連史跡:内藤昌豊の墓

長篠の戦いで内藤昌豊は撤退を主張するも勝頼は承知しませんでした。設楽原で昌豊は左翼で奮戦。しかし、山県昌景が討ち死にを知ると、勝頼に退却を進言。勝頼を馬場信春とともに退却させたあと、殿として本陣に踏みとどまり、奮戦の末、討ち死にしました。
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「長篠の戦い」の関連史跡:横田綱松の墓

天文19年(1550年)の砥石城攻めで武田家足軽大将の横田高松が戦死したため、婿養子になり足軽大将として武田信玄に仕えた。信玄の没後は勝頼に仕え、天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで息子3人とともに戦死した。
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「長篠の戦い」の関連史跡:甘利信康の墓

長篠の戦いでは山県昌景らと100騎の侍大将として左翼隊に属しました。当初は第3の柵をも破る勢いでしたが、次第に押し戻され、柳田前激戦地近くまで来たときには、武田軍は総崩れとなっていました。信康は立ったまま切腹したといいいます。
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「長篠の戦い」の関連史跡:武田勝頼観戦地

長篠の戦いで織田・徳川連合軍との決戦を決断した武田勝頼は、設楽原決戦の開戦時に連吾川を見下ろすこの才ノ神の赤禿山に陣を移して観戦します。ここからは家康本陣、柳田前激戦地、丸山砦など連吾川沿いの戦線を一望、全軍を指揮したとされる場所です。
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「長篠の戦い」の関連史跡:高森恵光寺の塚

長篠の戦いのとき、高森恵光寺宗賢は、武田信実の指揮下に入り、鳶ヶ巣山砦を守備していたようです。しかし、酒井忠次の奇襲攻撃を受け、下山して設楽原の武田勢と合流しますが、子の恵光寺快川はじめ、主従ことごとく戦死したと推定されています。
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「長篠の戦い」の関連史跡:真田兄弟の墓

真田幸村の父・昌幸の兄である信綱と昌輝は、長篠の戦いで、馬場信春、土屋昌続らと右翼に構え、丸山砦の佐久間信盛との戦いで討死しました。真田源太左衛門尉信綱、真田兵部丞昌輝の名が彫られた墓と共に奮戦した家臣の墓も同じ場所にあります。
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「長篠の戦い」の関連史跡:馬場信春の墓

武田四天王の一人。川中島の戦い、駿河侵攻、三方ヶ原の戦い等で武功をあげる。信玄の死後は勝頼を補佐する。長篠の戦いでは武田軍の右翼に陣取り奮戦するが、勝頼に撤退を進言し、自らは殿を務めた。勝頼撤退を見届けると命を落とした。
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「長篠の戦い」の関連史跡:鳶ヶ巣山砦

天正3年(1575)の長篠の戦いの際、武田軍は鳶ヶ巣山砦をはじめ5つの砦を築き長篠城を監視しました。長篠城救済のため酒井忠次が、四千の兵を率いて砦を奇襲。激戦となりますが、多くが討死して砦は落城。長篠城の城兵と合流することができました。
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「長篠の戦い」の関連史跡:医王山 武田勝頼本陣跡

武田勝頼本陣は、天正3年(1575)の長篠の戦いの際、勝頼が医王寺の裏山に陣城として築きます。 標高約120mに位置し、 約600m南方に位置する長篠城を監視し、また、武田軍の各陣を確認できました。さらに長篠救援軍の動きも確認できました。
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「長篠の戦い」の関連史跡:医王寺

長篠山医王寺は永正11年(1514)の創立。曹洞宗で薬師如来を本尊とします。天正3年(1575)長篠の戦いの時、武田勝頼が本陣を背後の山に置きます。出撃前夜、夢に現れた老人がの腕を切り落としたため、境内の葦が全て片葉になった伝説が残ります。
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「長篠の戦い」の関連史跡:信玄塚(小塚)

天正3年(1575)の長篠の戦いの戦死者を埋葬した塚とされます。武田軍は1万人が、織田・徳川連合軍は5000人が犠牲になったといわれます)。築いた塚の上に松を植え、徳川・連合軍側の死者を弔った方が小塚と呼ばれたとも伝承されます。
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「長篠の戦い」の関連史跡:馬防柵

武田騎馬隊の突進を防ぐだけでなく、火縄銃を乗せて狙撃の命中精度を上げ、連合軍を勝利へと導きました。連吾川沿いに全長2キロメートル、三重で作られていたようで、使われた丸太は信長の領地・岐阜から運び込まれ、現地調達はしていないといわれます。
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「長篠の戦い」の関連史跡:徳川家康本陣跡

長篠の戦いのとき、徳川家康は連吾川から西に300m離れた高松山に本陣を構えたと伝えられています。織田・徳川連合軍は徳川家康と佐久間信盛が最前線に陣を構え、対峙する武田軍は前線に馬場信房らの武田四天王が布陣し、背後に武田勝頼が本陣を置きました。