「長篠の戦い」の関連史跡:馬防柵

史跡

⑩ 馬防柵 ⑪ 馬防柵左端

⑩ 馬防柵

長篠・設楽原の戦いの際、織田徳川連合軍が防御のために作った柵が、地元の人々のてによって復元されています。
当時最強と言われていた武田騎馬隊の突進を防ぐだけでなく、銃を載せる台として使うことで火縄銃による狙撃の命中精度も上がり、連合軍を勝利へと導きました。

設楽原の中央を流れる連吾川沿いに全長2キロメートル、三重で作られていたようです。
使われた丸太は、すべて信長の領地・岐阜から運び込まれ、現地調達はしていないといわれます。

アクセス

住所:愛知県新城市竹広

クルマ🚙
 新東名高速道路 新城ICから約2Km

電車🚉
 JR飯田線 三河東郷駅から約1.5Km

⑪ 馬防柵左端

武田軍右翼の浜田に陣した馬場信春土屋昌次らと、織田軍最左翼の水野信元佐久間信盛丹羽長秀らが対峙した所になります。

◆「長篠の戦い」につては、こちらもご覧ください。

徳川家康8 長篠の戦いの戦略と遠江平定への道のり
天正三年(1575)五月二十一日、奥三河の要衝・長篠城を巡る戦いが織田・徳川連合軍と武田軍の間で起こります。織田・徳川軍を勝利に導いた戦略とは?戦後、信長は天下人への道を進み、家康は遠江へ領土拡大、勝頼は衰退していく過程を解説しています。

◆「馬場信春の墓」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:馬場信春の墓
武田四天王の一人。川中島の戦い、駿河侵攻、三方ヶ原の戦い等で武功をあげる。信玄の死後は勝頼を補佐する。長篠の戦いでは武田軍の右翼に陣取り奮戦するが、勝頼に撤退を進言し、自らは殿を務めた。勝頼撤退を見届けると命を落とした。

◆「土屋昌次の墓」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:土屋昌次の墓
長篠の戦いで、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らと撤退を進言したと言われるが、武田勝頼は決戦を決定する。戦が始まると、真田信綱・昌輝らと右翼の天神山に陣を敷いた。大宮前激戦地で織田勢の三重柵の二重まで突破したが、一斉射撃を受け戦死したという。

アクセス

住所:愛知県新城市竹広

クルマ🚙
 新東名高速道路 新城ICから約4Km

電車🚉
 JR飯田線 三河東郷駅から約2.1Km

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