「長篠の戦い」の関連史跡:真田兄弟の墓

史跡

⑤ 真田兄弟の墓

真田幸隆(幸綱)の長男・真田信綱と、二男・真田昌輝兄弟は真田幸村の父真田昌幸の兄です。

長篠設楽原の戦いでは、西の連吾川、東の五反田川に挟まれた丘陵地に馬場信春土屋昌続らと右翼に構え、丸山砦の佐久間信盛との戦いで討死しました。
真田源太左衛門尉信綱、真田兵部丞昌輝の名が彫られた墓と共に奮戦した禰津甚平是広、常田図書春清、鎌原筑前守之綱の墓も同じ場所にあります。

真田信綱 天文6年(1537年)- 天正3年5月21日(1575年6月29日)

同母弟の昌幸・信尹らが幼年期から武田信玄に近侍しているため、信綱も早い時期から信玄に出仕していたと考えられています。

初陣や出仕時期など前半生は不明。戦場では専ら父・幸綱や弟の真田昌輝らと共に行動しており、信濃国や上野国を転戦していた。また近年では箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代としての待遇を得ていたようである
         ▶箕輪城(群馬県高崎市)

永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは父・幸綱と共に妻女山攻撃の別働隊に参加。
永禄6年(1563年)の岩櫃城攻略の前後から、幸綱は上野吾妻郡での活動が主となっており、信濃の本貫地は後継者である信綱が事実上支配していたと思われる。       ▶岩櫃城(群馬県吾妻郡)

永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担った。

元亀3年(1572年)の信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦した。また、幸綱に代わって信濃先方衆の筆頭に挙げられており、この頃には世代交代が済んでいると推測される。
      ▶三方ヶ原古戦場(浜松市中央区)

天正元年(1573年)、徳川家康が長篠城奪還のため出陣すると、勝頼の命で信綱はその救援のため出陣している。しかし、救援には間に合わず、長篠城は陥落した。

         ▶長篠城(愛知県新城市)

天正2年(1574年)5月に幸綱の死去に伴い正式に真田家の家督を継いだ。

天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いに真田の兵を率いて参戦した。三尺三寸の陣太刀・青江貞を振って奮戦し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死した。享年39。
       ▶長篠古戦場(愛知県新城市)


信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣(近習)の北沢最蔵と白川勘解由が甲斐に持ち帰ったといい、この「血染めの陣羽織」は上田市の信綱寺に収蔵されています。

真田昌輝 天文11年(1543年)6月 ー 天正3年5月21日(1575年6月29日)

天文12年(1543年)6月に岩尾城で生まれたとするが、異説もある。
小姓として武田信玄に近侍し、信玄により、有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢される。『甲陽軍艦』では、信玄から別家を立てる事を許されて独立し、真田本家の長兄・真田信綱の200騎とは別に50騎を預かる将として活躍し、信州先方衆の副将格であった。兄・信綱とともに出陣する事が多かったが、単独でも出陣し戦功を挙げた。

永禄11年(1568年)には信綱と駿河国攻めの先鋒を担う。
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは、最右翼の主将を馬場信春、そのすぐ左翼を兄・信綱が担い、さらに左横に陣取って、右翼部隊の一端を担う。織田信長軍の左翼を受け持った正面の佐久間信盛の陣に突撃すると、「丸山」と呼ばれる小高い丘を奪い合う局地戦を展開。ここでは首級を挙げるなど奮闘するが、深手を負い信綱とともに討死した。享年33。

アクセス

住所:愛知県新城市八束穂

クルマ🚙
 豊川ICーR151新城方面ー川田信号左折ー川田山田平信号右折ー道なりー清井田信号すぎてすぐ左折ー川手前の道右折ー川沿いに進み600m先左折ー川を渡り右折ー道なり直進200m先

電車🚉
 JR飯田線 「鳥居駅」下車 徒歩約30分 2.3km

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