「長篠の戦い」の関連史跡:高森恵光寺の塚

史跡

⑥ 高森恵光寺の塚

現地には2つの墓碑があり、左のものは平成9年夏に作られたもので安山岩でできている。右のものは平成のはじめ、付近の田の中から出てきた花崗岩の不思議な石である。長い年月を経て、彫られた文字が消えているにも見え、金子藷山(※1)の見た快川(※2)の墓ではないか、という地元の説により、二つの墓碑が並びたてられました。

高森恵光寺快川については不明点が多いが、甲斐国塩山竹森の領主武田宗賢(恵光寺宗賢)の子である可能性が高いとされています(俗名は不明)。

恵光寺宗賢は、武田信実の指揮下に入っており、当初、鳶ヶ巣山砦を守備していたようですが、酒井忠次の奇襲攻撃を受け壊滅状態となり、下山して設楽原の武田勢と合流したと考えられます。
しかし、子の恵光寺快川はじめ、主従ことごとく戦死し、ここに葬られました。

👉5月21日 織田信長による首実検の中に高森恵光寺の名 があります。

なお、恵光寺宗賢は生きて帰ったようです(1583年、高森に宝授院を建て、亡くなった息子の菩提を弔っています)。

※1:金子藷山:戦後33年目に戦跡を巡歴し、「藷山随筆」を書いた

※2:武田信重の5世の孫で、恵光寺宗賢の子と推定される
   武田重信:室町時代中期の守護大名。甲斐源氏14代当主。武田氏11代当主。

◆「鳶ヶ巣山砦」につては、こちらをご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:鳶ヶ巣山砦
天正3年(1575)の長篠の戦いの際、武田軍は鳶ヶ巣山砦をはじめ5つの砦を築き長篠城を監視しました。長篠城救済のため酒井忠次が、四千の兵を率いて砦を奇襲。激戦となりますが、多くが討死して砦は落城。長篠城の城兵と合流することができました。

アクセス

住所:愛知県新城市大宮清水

クルマ🚙
 新東名高速道路 新城ICから約4Km

電車🚉
 JR飯田線 三河東郷駅から2km

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