「長篠の戦い」の関連史跡:武田勝頼観戦地

史跡

⑦ 武田勝頼観戦地

天正3年(1575年)年5月の長篠の戦いで、総大将の武田勝頼は医王寺の本陣の軍議で忠臣たちの反対を押し切って織田・徳川連合軍との決戦を決断し、寒狭川を渡って清井田の戦地本陣へと軍を進めました。

さらに、21日の設楽原決戦の開戦時には、連吾川を見下ろすこの才ノ神の赤禿山(標高105m,比高20mの丘陵端)に陣を移して観戦します。
ここからは家康の本陣弾正山、柳田前激戦地、北の丸山砦などが連吾川沿いの戦線を一望、全軍を指揮したとされる場所です。

◆「医王山 武田勝頼本陣跡」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:医王山 武田勝頼本陣跡
武田勝頼本陣は、天正3年(1575)の長篠の戦いの際、勝頼が医王寺の裏山に陣城として築きます。 標高約120mに位置し、 約600m南方に位置する長篠城を監視し、また、武田軍の各陣を確認できました。さらに長篠救援軍の動きも確認できました。

◆「徳川家康本陣跡」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:徳川家康本陣跡
長篠の戦いのとき、徳川家康は連吾川から西に300m離れた高松山に本陣を構えたと伝えられています。織田・徳川連合軍は徳川家康と佐久間信盛が最前線に陣を構え、対峙する武田軍は前線に馬場信房らの武田四天王が布陣し、背後に武田勝頼が本陣を置きました。

◆「柳田前激戦地」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:柳田前激戦地
武田軍中央隊が主に激戦を行った戦地を総称して「柳田前」と呼び、武田軍の武田信廉・内藤昌豊・原昌胤 らが激戦を繰り広げました。また、生き残った各隊が中央隊と合流し、最後の戦闘を行ったところでもあります。

◆「丸山砦」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:丸山砦
丸山は織田軍の佐久間隊が陣を敷きますが、馬場信春が攻め占拠しました。丸山砦は武田軍右翼の要石であったので、馬場信春はここを固めました。終始戦場を俯瞰していたはずです。敗戦と決まると、信春は殿軍を務め戦場に踏みとどまって討ち死にしました。

アクセス

住所:愛知県新城市八束穂

クルマ🚙
 新東名高速道路 新城ICから約2Km

電車🚉
 JR飯田線 「三河東郷駅」から約2.2Km

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