「関ケ原の戦い」の関連史跡めぐり

史跡巡りコース

関ケ原駅を発着とした、関ケ原の戦いに関連する武将の陣跡や史跡をめぐるコースを紹介しています

「関ケ原の戦い」とは

慶長5 年(1600年)美濃国関ヶ原で、徳川家康を大将とする東軍と石田三成を中心とする反徳川勢力の西軍が行なった合

戦。この戦いののち家康が天下を握ったことから「天下分け目の戦い」ともいわれます。

慶長3年豊臣秀吉が死去すると、五大老、五奉行制で運営していた豊臣政権は五大老筆頭の徳川家康が政権獲得への野心を示したことから動揺をみせはじめます。
同4年五大老の一人として豊臣秀頼を補佐して家康との対立関係を調整していた前田利家が死去するとと家康の策動は表面化し、石田三成に反対する加藤清正福島正則を味方につけることに成功し、対立は激化しました。
同5年6月上杉景勝が会津に引きこもって家康に抵抗したので軍を進めました。これに対して三成は主として毛利宇喜多島津小早川など西国大名を糾合して同年7月挙兵。
家康は長男結城秀康を上杉と対陣させ、みずからは東海道を、秀忠には東山道を進ませ、同9月15日関ヶ原で戦闘が始まりました。
西軍には大将と目するものが存在せず足並みがそろわず苦戦し、そのうえ小早川秀秋の裏切りにあって総くずれとなりました。
戦後、石田三成、小西行長安国寺恵瓊は処刑され,その他は降参。石田方に味方した大名への処罰はきびしく改易 91家 420万石、減封4家でした。
また豊臣秀頼は摂津、河内、和泉を領する一大名にすぎなくなり,ここに徳川氏の覇権が確立しました。

「関ケ原の戦い」の関連史跡めぐり

赤字:東軍関連史跡、青字:西軍関連史跡、黒字:合戦地

関ケ原駅

関ケ原駅前観光交流館で自転車をレンタルできます。

利用時間:9:00〜16:30(冬季期間 9:00~16:00 終了時間までに返却)
利用料金:普通自転車 半日(4時間以内) 660円、1日(4時間以上)1,210円
     電動自転車 半日(4時間以内)1,210円、1日(4時間以上)2,310円
※金額は税込み
※予約も可能です(その場合は1日料金)                     2026年8月現在

① 山内一豊陣跡

関ケ原駅より自転車で10分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:山内一豊陣跡
慶長5年(1600年)山内一豊は桃配山後方の中山道に陣を敷き、南宮山に陣取った毛利勢の動きを牽制しました。戦いでは大きな武功をあげられませんでしたが、合戦前に居城・掛川城を明け渡したことで土佐の国主となった一豊の陣跡を紹介しています。

② 徳川家康最初陣地

山内一豊陣跡から自転車で5分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:徳川家康最初陣跡(桃配山)
徳川家康は関ケ原の戦いの早朝、桃配山に移動して中腹に陣を敷きました。家康は「軍議」を開き、午前10時頃陣を引き払って「徳川家康最後陣」に本陣を移し、戦闘が本格化しました。家康が関ケ原で最初に陣を敷いた最初陣跡を紹介しています。

③ 岡山(丸山)烽火場

徳川家康最初陣地から自転車で10分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:岡山(丸山)烽火場
慶長5年(1600年)関ケ原の戦い時には、竹中重門と黒田長政は岡山に陣取り、戦機を見て烽火(のろし)をあげました。山頂からは周辺を見渡せ、烽火を上げる最適な場所でした。開戦を伝える烽火を上げた岡山(丸山)烽火場を紹介しています。

④ 松平忠吉・井伊直政陣跡

岡山(丸山)烽火場から自転車で10分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:松平忠吉・井伊直政陣跡
松平忠吉は家康の四男で、関ケ原の戦いには舅の井伊直政と参戦しました。直政は初陣の忠吉に手柄を立てさせたいため宇喜多隊へ発砲し開戦しました。合戦の終盤、島津隊を追撃し戦果を挙げますが2人は傷を負います。2人が陣を敷いた跡を紹介しています。

⑤ 東首塚

松平忠吉・井伊直政陣跡の隣

「関ケ原の戦い」の関連史跡:東首塚
関ケ原の戦い後、徳川家康が首実検をしたのちに東西2ヶ所に埋葬したことから「東首塚」と呼ばれています。この地の領主・竹中重門が、家康の命により戦死した兵士たちを埋葬しました。東軍の戦死者が埋葬されと伝わる東首塚を紹介しています。

⑥ 田中吉政陣跡

東首塚から自転車で5分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:田中吉政陣跡
関ケ原の戦いで田中吉政が布陣した場所は徳川家康最後陣跡の隣にあります。吉政はここから石田隊に向かい激突したと伝わります。また吉政は石田三成を捕縛、ニラ粥を勧め三成はそれを食したといわれます。田中吉政が陣を敷いた陣跡を紹介しています。

⑦ 徳川家康最後陣跡

田中吉政陣跡の隣

「関ケ原の戦い」の関連史跡:徳川家康最後陣跡
桃配山で戦況を見守っていた家康は、自軍の苦戦に苛立ち、本陣を三成本陣まで約800mのこの地へ移します。そして松尾山の小早川秀秋に向けての発砲で東軍へ寝返りさせ、勝利へと導いたとされます。合戦後敵の首級が実検された最後陣跡を紹介しています。

⑧ 細川忠興陣跡

徳川家康最後陣跡から自転車で5分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:細川忠興陣跡
細川忠興は石田三成とは仲が悪く、関ケ原の合戦では最初から東軍として参戦。会津征伐の際は妻・玉(ガラシャ)を失い、父・細川幽斎(藤孝)の田辺城が西軍によって包囲されるなど、苦境に立ちながも石田隊を壊滅させた細川忠興の陣跡を紹介しています。

① 関ケ原古戦場決戦地

細川忠興陣跡から自転車で5分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:関ケ原古戦場決戦地
慶長5年(1600年)9月15日午前8時頃に開戦した関ケ原の戦いは西軍有利で進みます。しかし、小早川秀秋の寝返りによって、東軍が優勢となり西軍は敗北します。東軍が三成の首級を狙って、最大級の激戦が繰り広げられた「決戦地」を説明しています。

① 笹尾山石田三成陣跡

関ケ原古戦場決戦地から自転車で5分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:石田三成陣跡
西軍で開戦当初に戦っていたのは石田、宇喜多、小西、大谷らごく一部でした。正午頃までは一進一退の攻防でしたが、小早川秀秋が西軍を裏切ると、西軍の多勢の陣が崩れ三成も敗走します。戦場全体を見渡せる笹尾山に陣取った石田三成陣跡を紹介しています。

② 島左近陣跡

笹尾山石田三成陣跡と同じ場所

「関ケ原の戦い」の関連史跡:島左近陣跡
関ヶ原本戦で島左近は、朱色の兜、溜塗りの鎧、浅黄色の木綿羽織という出で立ちで、黒塗りの長柄槍を手にしていました。 黒田長政と細川忠興が攻め込む中、左近は何度も反撃に出て、東軍を押し返しました。 三成を守り続けた島左近の陣跡を紹介しています。

③ 島津義弘陣跡

島左近陣跡から自転車で5分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:島津義弘陣跡
当初、島津義弘は東軍として伏見城に入ろうとしたが鳥居元忠に断られ西軍に参加したと伝わります。そのせいか戦意的には非常に低かったとされます。しかし、的中突破する際に松平忠吉、井伊直政は重傷を負わせた島津義弘陣跡を紹介しています。

④ 小西行長陣跡

島津義弘陣跡から自転車で5分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:小西行長陣跡
関ケ原の戦いで小西行長隊は戦闘開始の狼火をあげると、東軍の田中吉政らと交戦します。しかし、小早川秀秋らの裏切ると小西隊も崩れ敗走します。斬首の際、キリストとマリアの聖像画を掲げて斬首されたキリシタン大名小西行長の陣跡を紹介しています。

② 関ケ原古戦場開戦地

小西行長陣跡から自転車で5分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:関ケ原古戦場開戦地
慶長5年(1600年)9月15日の朝8時頃、霧が晴れると井伊直政と松平忠吉が天満山の宇喜多秀家に鉄砲を撃ちかけ、福島正則も宇喜多秀家や小西行長と交戦状態に入り、「関ヶ原合戦」が始まりました。関ケ原の戦いが始まった開戦地を説明しています。

⑤ 宇喜多秀家陣跡

関ケ原古戦場開戦地から自転車で5分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:宇喜多秀家陣跡
開戦時宇喜多秀家は福島正則の鉄砲隊によっる一斉発砲を受けます。戦況は一進一退でしたが、小早川秀秋の裏切りで宇喜多軍は崩れ、秀家は戦場を逃れたといいます。戦後は八丈島への流罪となり他の武将よりも長生きした宇喜多秀家の陣跡を紹介しています。

⑥ 平塚為広の碑

宇喜多秀家陣跡から自転車で5分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:平塚為広の碑
関ケ原の戦いで平塚為広隊に迫ってきたのは藤堂高虎と京極高知でしたが、怯むことなく押し返したといわれます。小早川隊の寝返り等で、為広もこれまでかと敵勢に身を投じたといわれます。いち早く西軍に参加した平塚為広の碑について説明しています。

大谷吉継陣跡駐車場

平塚為広の碑から自転車で5分
自転車を停めて、「大谷吉継陣跡」、「松尾山眺望所」、「大谷吉継の墓」は徒歩でめぐります。

⑦ 松尾山眺望所 ⑧ 大谷吉継陣跡

大谷吉継陣跡駐車場から徒歩で10分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:松尾山眺望地
大谷吉継陣跡から数分の所に「松尾山眺望地」があります。松尾山を望み、山頂の小早川秀秋の軍旗も確認できます。しかし、秀秋、自らの与力・らの寝返りによって吉継は自刃します。吉継が秀秋の動きを監視した松尾山眺望地について説明しています。
「関ケ原の戦い」の関連史跡:大谷吉継陣跡
合戦開始時、大谷勢は、戸田重政、平塚為広と共に寺沢広高らと戦います。小早川秀秋が寝返りると大谷吉継が対応。しかし、脇坂安治らも寝返ると、この劣勢を覆す事はできずに、大谷勢は壊滅します。義を貫いた大谷吉継陣跡を紹介しています。

⑨ 大谷吉継の墓

大谷吉継陣跡から徒歩で10分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:大谷吉継の墓
大谷吉継の墓は陣跡から山を入ったところに建っています。吉継は小早川秀秋の寝返り後、藤堂高虎隊や京極高知隊などと激戦を繰り広げました。しかし、もはやこれまでと自刃を決意します。関ケ原での自刃を選択した大谷吉継の墓について説明しています。

大谷吉継陣跡駐車場

大谷吉継の墓から徒歩で20分

⑩ 脇坂安治陣跡

大谷吉継陣跡駐車場から自転車で10分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:脇坂安治陣跡
脇坂安治陣跡は大谷吉継らの陣の南東、小早川秀秋が陣を敷いた松尾山の麓にあります。脇坂安治は西軍として布陣しますが、小早川隊が寝返ると大谷隊へ攻撃をしかけ東軍を勝利に導きました。賤ケ岳の七本槍にも数えられた脇坂安治陣跡を紹介しています。

⑨ 福島正則陣跡

脇坂安治陣跡から自転車で10分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:福島正則陣跡
福島正則は豊臣恩顧の大名でしたが、文治派の石田三成との対立から関ケ原の戦いは東軍に参加。 開戦日未明に春日神社辺りに着陣し、開戦後、宇喜多隊に襲いかかりました。 陣跡に関ケ原合戦図屏風にも描かれた杉が残る福島正則の陣跡を紹介しています。

⑩ 藤堂高虎・京極高知陣跡

福島正則陣跡から自転車で5分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:藤堂高虎・京極高知陣跡
京極高知は関ヶ原の戦いでは大谷吉継隊と戦い戦功を挙げます。 藤堂高虎は大谷吉継を相手に戦闘した後、石田三成と戦ったとされます。 また脇坂安治らに東軍への内応工作を行っています。 関ケ原中学校に標柱が立つ、藤堂高虎・京極高知陣跡を説明しています。

⑪ 西首塚

藤堂高虎・京極高知陣跡から自転車で5分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:西首塚
「西首塚」は、J「東首塚」と同様、当時の領主・竹中重門が徳川家康の命により、関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬しました。JR東海道本線の敷設の際に埋葬されていた白骨が大量に出て、胴塚とも呼ばれる「西首塚」についてご紹介しています。

⑪ 本多忠勝陣跡

西首塚から自転車で10分

「関ケ原の戦い」の関連史跡:本多忠勝陣跡
本多忠勝は南宮山の毛利秀元を監視し、動きが無いと宇喜多秀家を攻撃したと言います。その後石田三成と戦いますが、島津義弘が中央突破すると追撃しました。東の南宮山方面を牽制しながらも、戦場を縦横無尽に活躍した本多忠勝陣跡を説明しています。

関ケ原駅

本多忠勝陣跡から自転車で10分

※松尾山の小早川秀秋の陣跡にも行きたかったのですが、時間も、体力的にも叶いませんでした。

関ケ原周辺の陣跡を中心にめぐるコースを紹介しました。
皆様が関ケ原を訪れる際に少しでもご参考になれば、幸いです。

                                          

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