② 徳川家康最初陣地(桃配山)
徳川家康は関ケ原の戦い(慶長5年(1600)9月15日)の早朝、赤坂から桃配山に移動して中腹に陣を敷きました。
この山は、壬申の乱の際に勝者である大海人皇子(のちの天武天皇)が陣を敷いたという言い伝えがあります。
家康も縁起を担ぎ、この地に陣を敷いたといわれています。
ここで徳川家康は「厭離穢土・欣求浄土」の馬印を立て「軍議」を開きました。
戦闘が開始され朝10時頃になると、多数の鉄砲が放った煙で、関ヶ原の戦況が見えにくくなった事、若干、東軍が押されていた事で挽回するべく、徳川家康は陣を引き払って「徳川家康最後陣」と名付けられた、笹尾山から約600mの場所へ本陣を移しました。
国道21号線を関ケ原駅方面に向かって左側、ガソリンスタンドの隣の小山の中腹に史跡はあります。
ギャラリー








アクセス
住所:
岐阜県不破郡関ケ原町野上1424-1
電車🚉
JR東海道本線 関ケ原駅より約1.8Km
(関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)
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