「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:勝入塚

史跡

⑨ 勝入塚

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉方の武将・池田恒興が無念の戦死をした場所になります。

恒興は、天正10年(1582年)本能寺の変で主君・信長亡き後入道し、勝入齋と名乗りました。塚名はこの法名にちなむものです。
尖った「明治の碑」は、明治24年に恒興の子孫が建立しました。その左横の石柱「明和の碑」は、明和8年(1771)尾張藩士人見彌右衛門と赤林孫七郎が古戦場を訪れた際、立てたものです。

恒興は美濃(岐阜県)大垣城主で、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時は秀吉に味方しました。
この戦いの中、小牧山(小牧市)と楽田(犬山市)で家康と秀吉が対峙したとき、家康の本拠地の岡崎攻めを秀吉に進言し、自ら軍を率いて侵攻しました。
しかし、途中、岩崎城(日進市)を攻めるのに手間どり、家康軍先遣隊に追撃の機会を与えてしまいました。


結局、この地「仏が根」で家康の本体と決戦となり、奮戦空しく永井直勝に討たれ戦死しました

アクセス

住所:
 愛知県長久手市武蔵塚204

クルマ🚙
 名古屋瀬戸道路 長久手IC より約2.2km
 
電車🚉
 愛知高速交通東部丘陵線 長久手古戦場駅 より約400m

関連スポット

◆「小牧山城」については、こちらもご覧ください。

「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:小牧山城
小牧山城は歴史上2回のスポットが当たります。1回目は織田信長が永禄6年に美濃攻めの拠点として築城し清洲城から移転した時。2回目は天正12年の小牧・長久手の戦いで、徳川家康がこの地に本陣を置いた時です。歴史上重要な小牧山城を紹介しています。

◆「楽田城」については、こちらもご覧ください。

「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:楽田城
楽田城は十六世紀前半尾張守護代・織田久長の築城といわれます。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いでは、小牧山城を本陣とした徳川・織田軍に対して、羽柴秀吉は楽田城を本陣としました。秀吉の本陣・楽田城を紹介しています。

◆「岩崎城」については、こちらもご覧ください。

「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:岩崎城
岩崎は、尾張、三河を結ぶ街道の要衝で、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、岩崎城の戦いの舞台になりました。城代丹羽氏重は池田恒興隊を阻止しますが。300余名が討ち死にしました。戦いの舞台となった岩崎城を紹介しています。

◆「長久手古戦場」については、こちらもご覧ください。

「小牧・長久手の戦い」の関連史跡:長久手古戦場
池田恒興、森長可に徳川軍出現の報が伝わると、両将は引き返し徳川軍と激突します。戦況は一進一退でしたが森長可が狙撃されると徳川軍優勢となり、池田恒興も討死するなど池田・森勢は壊滅。徳川軍の勝利に終わった長久手の戦いを説明しています。

◆「小牧・長久手の戦い」の関連史跡を巡るコースもご紹介しています。
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「小牧・長久手の戦い」の関連史跡めぐり
小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584)3月~11月の間の徳川家康・織田信雄連合軍と豊臣秀吉の戦いです。450年前の出来事ですが、戦いの史跡が多く残っています。秀吉が天下人になる決定的な戦いの史跡、訪問ルートを紹介しています。

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