「長篠の戦い」の関連史跡:徳川家康本陣跡

史跡

⑨ 徳川家康本陣跡

「高松山・八剣高松山、弾正山」などと呼ばれ、連吾川から西に300m離れたこの地に本陣を構えたと伝えられています。
徳川家康佐久間信盛が最前線に陣を構え、その背後に羽柴秀吉、織田信長(本陣)、岡崎信康(家康の長男)、織田信忠という陣構えとなりました。

対峙する武田軍は前線に武田四天王の馬場信房(ばばのぶふさ)、内藤昌豊(ないとうまさとよ)、山県昌景(やまがたまさかげ)が布陣し、その背後に武田勝頼が本陣を置いています。

👉連吾川には2kmにわたり馬防柵が設けられ、さらに弾正山背後の大宮川にも一重柵(馬防柵)が設けられていたので、まさに家康は背水の陣だったことがよくわかります。

👉家康家臣で「鬼作左」と恐れられた本多作左衛門重次が「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」(原文は一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく)と記したのはこの陣中。
お仙とは嫡男・仙千代で、後に丸岡初代藩主となる本多成重のことです。

👉250m東へ行った所には、家康が陣頭指揮をした「家康物見塚」と呼ばれる所がありますので、ぜひそちらも一緒に見学してみてください。

◆「羽柴秀吉本陣跡」については、こちらもご参照ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:羽柴秀吉本陣跡
長篠の戦いの時、羽柴秀吉は織田信長戦地本陣の北側、織田・徳川連合軍の最左翼に陣を構えます。この一帯を「はたぼこ」と今もその名を伝えています。戦いの前年秀吉は、木下から羽柴に改めたため、「木下秀吉陣地」と「羽柴秀吉陣地」の両方の石碑があります。

◆「織田信長戦地本陣跡」については、こちらもご参照ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:茶臼山 織田信長本陣跡
天正3年(1575年)5月20日。織田信長は設楽原の戦いに備え、最初の本陣(極楽寺跡)で軍議を開いた後、茶臼山に本陣を移し、織田・徳川連合軍の指揮をとりました。新東名長篠設楽原下りPAからも行ける本陣跡を写真とともに触れています。

◆「岡崎信康本陣跡」については、こちらもご参照ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:岡崎信康本陣跡
長篠の戦いのとき、徳川家康の嫡男である岡崎(松平)信康は、石川数正や平岩親吉と共に松尾神社に布陣しました。家康の本陣から400mほど後方、織田信長の本陣の南側に位置します。この時、信康17歳。後に信長の命によって自刃させられています。

◆「織田信忠本陣跡」については、こちらもご参照ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:織田信忠本陣跡
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いのとき、織田信忠は野邊神社に陣所を置きます。信長の南側、松平信康の後方に位置します。信忠はこの時、19歳。この後、岩村城や甲斐を攻め、武田家を滅ぼして織田家当主として磐石の地位を築いていきます。

アクセス

住所:愛知県新城市竹広(八剱神社)

クルマ🚙
 新東名高速道路新城ICから約2km
電車🚉
 JR飯田線三河東郷駅から徒歩15分

コメント

タイトルとURLをコピーしました