徳川家康

史跡巡りコース

「桶狭間の戦い」の関連史跡巡り2 ~沓掛、大高、鳴海城と5つの砦めぐり~

永禄3年(1560年)5月、織田信長が桶狭間に陣取った今川義元を破り、天下統一の第一歩となった「桶狭間の戦い」。戦いの緒戦となった今川勢の大高城、鳴海城、そしてその周辺に築かれた織田勢の砦の説明と史跡を巡るコースを紹介しています。
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「桶狭間の戦い」の関連史跡:丹下砦

織田信長によって今川方の鳴海城を囲むように善照寺砦、中島砦とともに築かれました。永禄3年(1560)5月今川義元の尾張侵攻に対して、信長は清洲城から、丹下砦、善照寺砦、中島砦の順に移ります。信長が最初に入った丹下砦を紹介しています
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「桶狭間の戦い」の関連史跡:善照寺砦

織田信長によって今川方の鳴海城を囲むように、丹下砦、中島砦とともに築かれました。永禄3年(1560)5月今川義元の尾張侵攻に対して、信長は清洲城から、丹下砦、善照寺砦、中島砦の順に移ります。信長が兵を集めたともいわれる善照寺砦を紹介しています。
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「桶狭間の戦い」の関連史跡:中島砦

織田信長によって今川方の鳴海城を囲むように、丹下砦、善照寺砦とともに築かれました。永禄3年(1560)5月今川義元の尾張侵攻に対して、信長は清洲城から、丹下砦、善照寺砦、中島砦の順に移ります。桶狭間に出陣した中島砦を紹介しています。
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「桶狭間の戦い」の関連史跡:鳴海城

鳴海城は桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後も、城将・岡部元信は抵抗し続けたことで有名です。そして、元信は主君・今川義元の首と引き換えに開城します。そのような歴史の舞台となった鳴海城の今をご紹介しています。
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「桶狭間の戦い」の関連史跡:鷲津砦

織田信長が今川勢の大高城への最前線の拠点として丸根砦とともに築いた砦です。桶狭間の戦いの前哨戦として、朝比奈泰朝によって門扉や営柵に火が放たれ、守将・飯尾定宗らは死傷しました。桶狭間の戦いの前哨戦が行われた鷲津砦をご紹介しています。
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「桶狭間の戦い」の関連史跡:丸根砦

織田信長が今川勢の大高城への最前線の拠点として鷲津砦とともに築いた砦です。桶狭間の前哨戦として徳川家康(松平元康)が、佐久間盛重を守将とした織田勢を全滅させたことでも有名な丸根砦跡をご紹介しています。
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「桶狭間の戦い」の関連史跡:大高城

織田勢に対する今川方の最前線の位置にあった大高城。信長は丸根、鷲津砦を築き大高城を牽制します。桶狭間の前夜(諸説あり)、徳川家康は大高城に兵糧を入れ、翌朝丸根砦を落とします。今川VS織田の最前線となった大高城をご紹介しています。
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「桶狭間の戦い」の関連史跡:沓掛城

永禄3年5月18日今川義元は織田勢に圧迫されていた大高城救済、尾張国境強化(諸説あり)の為、沓掛城に入ります。翌19日沓掛城を出立、桶狭間にて休憩中、織田勢に襲われ、討ち取られます。義元が最期の夜を過ごした沓掛城の今をご紹介しています。
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徳川家康1 家康誕生までの松平家の成り立ち

東は駿河の今川氏、西は尾張の織田氏に挟まれた三河の松平氏。牢浪人といわれる松平家の祖・氏親から織田信長、豊臣秀吉に仕え、終には征夷大将軍として265年に渡る江戸幕府を開いた徳川家康の誕生までの松平家の系譜を解説しています。
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徳川家康2 織田、今川家に翻弄された幼少~青年期の人質時代

松平広忠は一族を統率しますが、織田氏・今川氏と対立します。織田氏の人質なっていた竹千代を今川氏が奪還し駿府で保護し、松平家は今川支配下に入ります。家康誕生時の松平家の状況、家康の人質時代、婚姻、嫡男・信康の誕生についても触れています。
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徳川家康3 家康にとっての桶狭間の戦い

今川義元が出陣、従来は上洛が目的と言われましたが、現在では自国の平和維持のために織田氏との境目確保が目的であったと考えられています。桶狭間の戦いに至る行程、そしてなぜ今川氏の軍勢が敗れたか。家康はどう行動したかを解説しています。
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徳川家康4 織田信長との同盟成立と三河一向一揆を鎮めて三河平定への過程

桶狭間での敗戦で三河における今川氏の影響力が低下します。その時、家康は領国を守るためどう決断したか。そして、どのようして三河を平定して戦国大名徳川家康が誕生したか。さらに、尾張の織田信長との関係について解説しています。
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徳川家康5 将軍足利義昭を巡る信長、家康、信玄の関係と今川氏の滅亡

三河を平定した家康は将軍足利義昭の上洛戦、朝倉氏への攻撃、姉川との戦いに参戦していきます。一方、織田氏・武田氏との協力関係のもと、遠江にも進出し、今川氏を滅亡に追いこみます。しかし、そこには新たな火種が・・・記事をご覧頂きご確認ください。
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徳川家康6 三方原合戦と武田信玄の死

足利義昭の上洛を果たした信長に朝倉氏、浅井氏、三好三人衆、大坂本願寺が挙兵。武田信玄とも対立し、家康は三方原の戦いで敗戦します。この結果、義昭も信長と対立します。この対立の原因となる三方原の戦いに至る過程とその影響について触れています。