「長篠の戦い」の関連史跡めぐり1 設楽原周辺

史跡巡りコース
  1. 長篠の戦いとは
  2. 1:⑥ 羽柴秀吉本陣跡 新東名新城ICから車で約10分
      1. 史跡の詳細は、こちらをご参照ください
  3. 2:⑦ 織田信長本陣跡(茶臼山) 羽柴秀吉本陣跡から車で約6分
      1. 史跡の詳細は、こちらをご参照ください
  4. 3:④ 織田信長本陣跡(極楽寺跡)織田信長本陣跡(茶臼山)から車で約5分
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  5. 4:⑤ 織田信忠本陣跡 織田信長本陣跡(極楽寺跡)から車で5分
      1. 史跡の詳細は、こちらをご参照ください
  6. 5:⑧ 岡崎信康本陣跡 織田信忠本陣跡から車で5分
      1. 史跡の詳細は、こちらをご参照ください
  7. 6:⑨ 徳川家康本陣跡 岡崎信康本陣跡から車で約5分
      1. 史跡の詳細は、こちらをご参照ください
  8. 7:① 丸山砦 徳川家康本陣跡から車で5分
      1. 史跡の詳細は、こちらをご参照ください
  9. 8:② 大宮前激戦地 丸山砦から徒歩で5分
      1. 史跡の詳細は、こちらをご参照ください
  10. 9:⑥ 高森恵光寺の塚 大宮前激戦地から徒歩5分
      1. 史跡の詳細は、こちらをご参照ください
  11. 10:⑪ 馬防柵左端 丸山砦から車で5分
      1. 史跡の詳細は、こちらをご参照ください
  12. 11:⑦ 武田勝頼観戦地 馬防柵から庚申堂の駐車場まで車で5分
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  13. 12:設楽原歴史資料館 庚申堂の駐車場から車で5分
  14. 13:⑧ 甘利信康の墓 設楽原歴史資料館から徒歩で5分
      1. 史跡の詳細は、こちらをご参照ください
  15. 14:③ 設楽原・連吾川 甘利信康の墓から徒歩で1分
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  16. 15:④ 柳田前激戦地
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  17. 16:⑩ 馬防柵 柳田前激戦地から徒歩で5分
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  18. 17:⑫ 小幡信貞の墓 馬防柵から徒歩で7分
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  19. 18:⑫ 信玄塚(小塚) 小幡信貞の墓から徒歩で3分
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  20. 19:⑮ 山県昌景の墓 信玄塚(小塚)から徒歩で1分
      1. 史跡の詳細は、こちらをご参照ください
  21. 20:⑭ 原昌胤の墓 山県昌景の墓から徒歩で5分
      1. 史跡の詳細は、こちらをご参照ください
  22. 21:⑬ 信玄塚(大塚) 原昌胤の墓から徒歩で5分
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  23. 22:⑪ 土屋昌次の墓 信玄塚(大塚)から徒歩で5分
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  24. 23:⑨ 横田綱松の墓 土屋昌次の墓から徒歩で5分
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  25. 24:⑩ 内藤昌豊の墓 横田綱松の墓から徒歩で1分
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  26. 設楽原歴史資料館 内藤昌豊の墓から徒歩で5分
  27. 25:⑤ 真田兄弟の墓 設楽原歴史資料館から車で5分
  28. 参考

長篠の戦いとは

天正3年(1575)5月三河 (愛知県) 設楽原における武田勝頼と、織田信長徳川家康の連合軍との戦い。
勝頼は、天正2年(1574) 年遠江 (静岡県) の高天神城を落とすと、その勢いに乗って翌年長篠城をを囲みます。城主奥平定昌 (のち信昌) の要請により、信長と家康が出陣。
極楽寺山に陣した信長は馬防柵を設け、3000梃の鉄砲隊で勝頼の騎馬隊を大敗させました。
この戦いは、その後の築城法や戦術に画期的変化をもたらしました。

地図中の「長篠の戦い」の関連史跡をめぐるコースと、各史跡についてご紹介しています。

赤数字:織田・徳川軍関連史跡青数字:武田軍関連史跡黒数字:主な戦闘場所
は別のテーマでとりあげる予定です。

1:⑥ 羽柴秀吉本陣跡 新東名新城ICから車で約10分

新城市牛倉宗国地域の田んぼの奥に石碑があります。

駐車場はないので、石碑の近くに車を停めて石碑まで歩くことをお勧めします。
田植え後に訪問(長篠の戦いの時も田植え後であると思いますが・・・)したので、のどかな風景が広がり、織田信長が最後に本陣を置いた茶臼山を望むことができます。(観覧時間5分)

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「長篠の戦い」の関連史跡:羽柴秀吉本陣跡
長篠の戦いの時、羽柴秀吉は織田信長戦地本陣の北側、織田・徳川連合軍の最左翼に陣を構えます。この一帯を「はたぼこ」と今もその名を伝えています。戦いの前年秀吉は、木下から羽柴に改めたため、「木下秀吉陣地」と「羽柴秀吉陣地」の両方の石碑があります。

                       ➡ ➡ ➡ 織田信長本陣跡(茶臼山)へ車で移動

2:⑦ 織田信長本陣跡(茶臼山) 羽柴秀吉本陣跡から車で約6分

織田信長が決戦時に本陣を移した所になり、新東名高速道路 長篠設楽パーキングエリアに隣接します。
羽柴秀吉本陣跡からは、車で茶臼山の周りをまわり、ぷらっとパーク 長篠設楽原PA(下り)に停めて、訪問することができます。(観覧時間20分)

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「長篠の戦い」の関連史跡:羽柴秀吉本陣跡
長篠の戦いの時、羽柴秀吉は織田信長戦地本陣の北側、織田・徳川連合軍の最左翼に陣を構えます。この一帯を「はたぼこ」と今もその名を伝えています。戦いの前年秀吉は、木下から羽柴に改めたため、「木下秀吉陣地」と「羽柴秀吉陣地」の両方の石碑があります。

                      ➡ ➡ ➡ 織田信長本陣跡(極楽寺跡)へ車で移動

3:④ 織田信長本陣跡(極楽寺跡)織田信長本陣跡(茶臼山)から車で約5分

織田信長が設楽原に最初に着陣した陣地になります。
徳川家康の家臣・酒井忠次の「鳶ヶ巣山砦」攻撃の進言を受けた場所ともいわれます。
その後、信長は茶臼山へと本陣を移しました。(観覧時間10分)

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「長篠の戦い」の関連史跡:極楽寺 織田信長本陣跡
織田信長は、天正3年(1574年)5月15日に徳川家康の岡崎城に入り、長篠城の武田軍包囲網を抜け出した鳥居強右衛門の救援要請を聞き、18日にのまずこの極楽寺跡に着陣します。最初に設楽原に着陣した極楽寺跡を写真とともに触れています。

                            ➡ ➡ ➡ 織田信忠本陣跡へ車で移動

4:⑤ 織田信忠本陣跡 織田信長本陣跡(極楽寺跡)から車で5分

織田信忠は、父・信長の茶臼山本陣の南、やや後方の野辺神社に本陣を置きました。現在は写真の標識があります。
小さな用水路沿いに神社があります。道も細く、駐車場もありませんので駐車に注意してください。(観覧時間10分)

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「長篠の戦い」の関連史跡:織田信忠本陣跡
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いのとき、織田信忠は野邊神社に陣所を置きます。信長の南側、松平信康の後方に位置します。信忠はこの時、19歳。この後、岩村城や甲斐を攻め、武田家を滅ぼして織田家当主として磐石の地位を築いていきます。

                            ➡ ➡ ➡ 岡崎信康本陣跡へ車で移動

5:⑧ 岡崎信康本陣跡 織田信忠本陣跡から車で5分

岡崎(松平)信康(徳川家康嫡男)は織田信長の茶臼山本陣の南、家康の本陣の後方の松尾神社に本陣を置きました。
信康は当時17歳、信康が切腹したのは4年後のことになります。
道路が広くなっている部分がありますので、駐車可能です。(観覧時間10分)

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「長篠の戦い」の関連史跡:岡崎信康本陣跡
長篠の戦いのとき、徳川家康の嫡男である岡崎(松平)信康は、石川数正や平岩親吉と共に松尾神社に布陣しました。家康の本陣から400mほど後方、織田信長の本陣の南側に位置します。この時、信康17歳。後に信長の命によって自刃させられています。

                            ➡ ➡ ➡ 徳川家康本陣跡へ車で移動

6:⑨ 徳川家康本陣跡 岡崎信康本陣跡から車で約5分

徳川家康本陣は織田・徳川連合軍の最前線に位置し、武田軍の馬場信房内藤正豊山県昌景らと対峙しました。
長篠の戦いは三河における戦い(家康の戦い)なので、最前線に陣取りました。
駐車できるスペースを見つけて駐車をお願いします。(観覧時間5分)

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「長篠の戦い」の関連史跡:徳川家康本陣跡
長篠の戦いのとき、徳川家康は連吾川から西に300m離れた高松山に本陣を構えたと伝えられています。織田・徳川連合軍は徳川家康と佐久間信盛が最前線に陣を構え、対峙する武田軍は前線に馬場信房らの武田四天王が布陣し、背後に武田勝頼が本陣を置きました。

                                ➡ ➡ ➡ 丸山砦へ車で移動

7:① 丸山砦 徳川家康本陣跡から車で5分

徳川・織田連合軍の佐久間信盛が陣を敷きますが、武田軍の馬場信房が奪い返しました。戦線の北部に位置するこの要衝は馬場が最後まで守り抜きました。
現在は写真のように道路脇のこんもりした茂みになっています。砦前の道路が少し広くなっています。(観覧時間10分)

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「長篠の戦い」の関連史跡:丸山砦
丸山は織田軍の佐久間隊が陣を敷きますが、馬場信春が攻め占拠しました。丸山砦は武田軍右翼の要石であったので、馬場信春はここを固めました。終始戦場を俯瞰していたはずです。敗戦と決まると、信春は殿軍を務め戦場に踏みとどまって討ち死にしました。

                            ➡ ➡ ➡ 大宮前激戦地へ徒歩で移動

8:② 大宮前激戦地 丸山砦から徒歩で5分

馬場信房による丸山占領に続いて、勢いに乗じた真田信綱昌輝兄弟や土屋昌次穴山信君らの諸隊が激戦を繰り広げた場所になります。
現在では他の場所同様に、激戦を想像できないのどかな場所になっています。
(観覧時間5分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:大宮前激戦地
馬場信春による丸山占領に続き、勢いに乗じた真田兄弟や土屋昌次、穴山信君らの諸隊が繰り出され、連合軍からも佐久間信盛、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、蒲生氏郷、森長可、水野信元、佐々成政、前田利家が加わり、激戦が行われた場所になります。

                           ➡ ➡ ➡ 高森恵光寺の塚へ徒歩で移動

9:⑥ 高森恵光寺の塚 大宮前激戦地から徒歩5分

現地には2つの墓碑があります。
左は平成9年夏に作られたもので安山岩でできており、右は平成の始め、付近の田から出てきた花崗岩の不思議な石です。
高森恵光寺快川の墓ではないかという地元の説により、2つ並んでいます。
(観覧時間5分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:高森恵光寺の塚
長篠の戦いのとき、高森恵光寺宗賢は、武田信実の指揮下に入り、鳶ヶ巣山砦を守備していたようです。しかし、酒井忠次の奇襲攻撃を受け、下山して設楽原の武田勢と合流しますが、子の恵光寺快川はじめ、主従ことごとく戦死したと推定されています。

                      ➡ ➡ ➡ 丸山砦に戻って、馬房策左端へ車で移動

10:⑪ 馬防柵左端 丸山砦から車で5分

武田軍右翼の浜田に陣した馬場信房、土屋昌次らと、織田軍最左翼の水野信元、佐久間信盛、丹羽長秀らが対峙した所になります。
駐車スペースは車を停められるスペースを見つけて。
(観覧時間5分)

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「長篠の戦い」の関連史跡:馬防柵
武田騎馬隊の突進を防ぐだけでなく、火縄銃を乗せて狙撃の命中精度を上げ、連合軍を勝利へと導きました。連吾川沿いに全長2キロメートル、三重で作られていたようで、使われた丸太は信長の領地・岐阜から運び込まれ、現地調達はしていないといわれます。

                            ➡ ➡ ➡ 武田勝頼観戦地へ車で移動

11:⑦ 武田勝頼観戦地 馬防柵から庚申堂の駐車場まで車で5分

設楽原決戦時、武田軍総大将・武田勝頼はこの地より全軍の指揮を執りました。
観戦地入口の向かいに庚申堂の駐車場があり利用可能です。
駐車場から観戦地までは徒歩10分程度です。案内板通りに進んでください。
(観覧時間25分)

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「長篠の戦い」の関連史跡:武田勝頼観戦地
長篠の戦いで織田・徳川連合軍との決戦を決断した武田勝頼は、設楽原決戦の開戦時に連吾川を見下ろすこの才ノ神の赤禿山に陣を移して観戦します。ここからは家康本陣、柳田前激戦地、丸山砦など連吾川沿いの戦線を一望、全軍を指揮したとされる場所です。

                           ➡ ➡ ➡ 設楽原歴史資料館へ車で移動

12:設楽原歴史資料館 庚申堂の駐車場から車で5分

1996年(平成8年)4月にの開館以来、「長篠・設楽原の戦い」に関する貴重な資料をはじめ、地元新城の考古・歴史・民俗などに関する多様な資料の保存・展示を通して、地域文化の継承と生涯学習の促進を目的としています。

開館時間:午前9時から午後5時(入場は午後4時30分まで)
休館日:毎週火曜日(火曜日が休日の場合は次の平日が休館)※ただし、夏休み期間中は開館
    年末年始(12月29日から1月3日)
入館料:一般400円、小中学生100円

観覧時間:20分

※この後は資料館の駐車場に車を停めさせていただいて、徒歩で各所を巡りました。

                            ➡ ➡ ➡ 甘利信康の墓へ徒歩で移動

13:⑧ 甘利信康の墓 設楽原歴史資料館から徒歩で5分

甘利信康は、馬防柵の第3柵をも破る勢いで奮闘しましたが、徳川勢に押し戻され、庄屋屋敷の門扉に寄りかかり立ったまま切腹したと伝わります。
歴史資料館の駐車場から降りてきた、交差点の角にあります。
(観覧時間5分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:甘利信康の墓
長篠の戦いでは山県昌景らと100騎の侍大将として左翼隊に属しました。当初は第3の柵をも破る勢いでしたが、次第に押し戻され、柳田前激戦地近くまで来たときには、武田軍は総崩れとなっていました。信康は立ったまま切腹したといいいます。

                    ➡ ➡ ➡ 設楽原・連吾川、柳田前激戦地へ徒歩で移動

14:③ 設楽原・連吾川 甘利信康の墓から徒歩で1分

主戦場となった設楽原は雁峰山から南流して豊川に注ぐ連吾川を挟む平地です。
平地ですが、南北に長い狭隘な窪地のような地形で、所々に丘陵の連なりや川があるほか、でこぼこだらけの難所です。
現在では写真のようなのどかな風景が広がります。(観覧時間5分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:設楽原・連吾川
設楽原は雁峰山から南流して豊川に注ぐ連吾川を挟む平地です。南北に長い狭隘な窪地で、所々に丘陵の連なり、川に沿う部分の多くは湿田で、しかもでこぼこだらけの難所でした。実際、家康の本陣と山県昌景の陣地との間はわずか300m程度でした。

15:④ 柳田前激戦地

武田軍中央隊が主に激戦を行った戦地を総称して「柳田前」と呼び、武田軍の武田信廉・内藤昌豊・原昌胤 らが激戦を繰り広げました。
連吾川にかかる橋の手前に激戦地の碑があります。      (観覧時間5分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:柳田前激戦地
武田軍中央隊が主に激戦を行った戦地を総称して「柳田前」と呼び、武田軍の武田信廉・内藤昌豊・原昌胤 らが激戦を繰り広げました。また、生き残った各隊が中央隊と合流し、最後の戦闘を行ったところでもあります。

                               ➡ ➡ ➡ 馬防柵へ徒歩で移動

16:⑩ 馬防柵 柳田前激戦地から徒歩で5分

馬防柵が、地元の人々によって復元されています。
武田騎馬隊の突進を防ぐだけでなく、銃を載せて狙撃の命中精度を上げ、連合軍を勝利へと導きました。
馬防柵の内側に車で行けます。また、設楽原に降りることも可能です。
(観覧時間15分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:馬防柵
武田騎馬隊の突進を防ぐだけでなく、火縄銃を乗せて狙撃の命中精度を上げ、連合軍を勝利へと導きました。連吾川沿いに全長2キロメートル、三重で作られていたようで、使われた丸太は信長の領地・岐阜から運び込まれ、現地調達はしていないといわれます。

                            ➡ ➡ ➡ 小幡信貞の墓へ徒歩で移動

17:⑫ 小幡信貞の墓 馬防柵から徒歩で7分

信貞は討ち死にせずに、武田領に帰ります。
古戦場にある墓は、この戦いで戦死した小幡憲重(父)の墓とも信貞の弟のものともいわれるが、明確ではありません。
道路から一段高い位置にあります。
(観覧時間5分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:小幡信貞の墓
小幡信貞のお墓があるのですが・・・。信貞は討死せずに生き残りました。大怪我はしたみたいなのですが武田領に戻りました。滝川一益、北条氏邦の配下となり、最後は真田昌幸の元へ行き、天正20年(1592年)52歳まで生きました。

                           ➡ ➡ ➡ 信玄塚(小塚)へ徒歩で移動

18:⑫ 信玄塚(小塚) 小幡信貞の墓から徒歩で3分

織田・徳川連合軍側の死者を弔った塚になります。
こちらを小塚と呼び、武田軍の死者を弔った塚を大塚と呼びます。
徳川軍は約5000人が犠牲になったと伝わります。
(観覧時間5分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:信玄塚(小塚)
天正3年(1575)の長篠の戦いの戦死者を埋葬した塚とされます。武田軍は1万人が、織田・徳川連合軍は5000人が犠牲になったといわれます)。築いた塚の上に松を植え、徳川・連合軍側の死者を弔った方が小塚と呼ばれたとも伝承されます。

                            ➡ ➡ ➡ 山県昌景の墓へ徒歩で移動

19:⑮ 山県昌景の墓 信玄塚(小塚)から徒歩で1分

道路の標識から入り、小高い丘を登った所に山県昌景の墓があります。
昌景の首は山梨に持ち帰られ、胴体がここに埋められたと伝わります。
家臣、その他の山県隊の戦士の墓もあります。
(観覧時間15分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:山県昌景の墓
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは武田軍左翼を担います。山県勢は「一番」に攻撃を仕掛けますが、敵の弾丸に馬を撃たれ落馬。志村又右衛門によって胴切山に運ばれますが、すでに死亡していました。首は山梨へ、胴は後日、ここに葬られました。

                             ➡ ➡ ➡ 原昌胤の墓へ徒歩で移動

20:⑭ 原昌胤の墓 山県昌景の墓から徒歩で5分

原昌胤は、山県昌景とともに9回突撃しますが、徳川軍の大久保忠世、大須賀康高の必死の抵抗に合い柵を破ることはできませんでした。
最後は織田鉄砲隊の一斉射撃で、大量の銃弾を浴び、討ち死にしたと伝わります。        (観覧時間5分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:原昌胤の墓
設楽原で昌胤は、武田軍の最左翼山県昌景の隣に甘利信康と布陣。大久保忠世、大須賀康高隊と戦います。昌胤は、山県と9回突撃するも柵を破れず、山県が討ち死にを知ると、山県隊を吸収し踏みとどまりますが、織田鉄砲隊の一斉射撃を受け討ち死にします。

                           ➡ ➡ ➡ 信玄塚(大塚)へ徒歩で移動

21:⑬ 信玄塚(大塚) 原昌胤の墓から徒歩で5分

武田軍側の死者を弔った塚になります。
こちらを大塚と呼び、織田・徳川連合軍の死者を弔った塚を大塚と呼びます。
武田軍の犠牲者は1万人と伝わります。
(観覧時間5分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:信玄塚(大塚)
天正3年(1575)の長篠の戦いの戦死者を埋葬した塚とされます。武田軍は1万人が、織田・徳川連合軍は5000人が犠牲になったといわれます)。築いた塚の上に松を植え、武田軍側の死者を弔った方が大塚と呼ばれたとも伝承されます。

                            ➡ ➡ ➡ 土屋昌次の墓へ徒歩で移動

22:⑪ 土屋昌次の墓 信玄塚(大塚)から徒歩で5分

土屋昌次は戦が始まると、真田信綱、真田昌輝と共に右翼の天神山に陣を敷きます。大宮前激戦地で織田勢の三重柵の二重まで突破したが、一斉射撃を受け戦死したといいます。
隣は従士温井左近昌国の墓。
(観覧時間5分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:土屋昌次の墓
長篠の戦いで、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らと撤退を進言したと言われるが、武田勝頼は決戦を決定する。戦が始まると、真田信綱・昌輝らと右翼の天神山に陣を敷いた。大宮前激戦地で織田勢の三重柵の二重まで突破したが、一斉射撃を受け戦死したという。

                            ➡ ➡ ➡ 横田綱松の墓へ徒歩で移動

23:⑨ 横田綱松の墓 土屋昌次の墓から徒歩で5分

横田綱松は親子4人で長篠・設楽原の合戦に参戦し、全員が討死したとされます。
長男は三年前の三方原の合戦で戦死していると・・・。
五男の尹松が跡を継ぎ、徳川家康に仕えました。
(観覧時間5分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:横田綱松の墓
天文19年(1550年)の砥石城攻めで武田家足軽大将の横田高松が戦死したため、婿養子になり足軽大将として武田信玄に仕えた。信玄の没後は勝頼に仕え、天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで息子3人とともに戦死した。

                            ➡ ➡ ➡ 内藤昌豊の墓へ徒歩で移動

24:⑩ 内藤昌豊の墓 横田綱松の墓から徒歩で1分

内藤昌豊は武田軍中央勝頼本陣の隣に兵約1,500を率い布陣。開戦後左翼に移動し、徳川家臣・本多忠勝石川数正隊と戦います。
敗戦濃厚になると勝頼に退却を進言し、自らは「大」の旗を持ち、殿として、横田兄弟と本陣に踏みとどまり、奮戦の末、討ち死にしました。
(観覧時間5分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:内藤昌豊の墓
長篠の戦いで内藤昌豊は撤退を主張するも勝頼は承知しませんでした。設楽原で昌豊は左翼で奮戦。しかし、山県昌景が討ち死にを知ると、勝頼に退却を進言。勝頼を馬場信春とともに退却させたあと、殿として本陣に踏みとどまり、奮戦の末、討ち死にしました。

                        ➡ ➡ ➡ 設楽原歴史資料館へ徒歩で戻ります

設楽原歴史資料館 内藤昌豊の墓から徒歩で5分

                            ➡ ➡ ➡ 真田兄弟の墓へ徒歩で移動

25:⑤ 真田兄弟の墓 設楽原歴史資料館から車で5分

真田幸隆(幸綱)の長男・真田信綱と、二男・真田昌輝兄弟は真田幸村の父真田昌幸の兄です。
西の連吾川、東の五反田川に挟まれた丘陵地に馬場信春、土屋昌次らと右翼に構え、丸山砦の佐久間信盛との戦いで討死しました。
駐車スペースがありませんので、駐車には注意してください。(観覧時間5分)

参考

長篠の戦いについては、以下のコンテンツもご参照ください。

徳川家康 武田勝頼の侵攻(長篠の戦いへ向かう過程)と信康事件のきっかけ
信玄の死で家康は領地の回復に成功。しかしあとを継いだ勝頼は遠江、美濃、三河に進軍を開始します。その時、信康の家臣が武田氏に内通するなど苦しい展開で、長篠城が取り囲まれます。家康と勝頼の戦いと長篠の戦いにつながる経緯について触れています。
徳川家康 長篠の戦いの戦略と遠江平定への道のり
天正三年(1575)五月二十一日、奥三河の要衝・長篠城を巡る戦いが織田・徳川連合軍と武田軍の間で起こります。織田・徳川軍を勝利に導いた戦略とは?戦後、信長は天下人への道を進み、家康は遠江へ領土拡大、勝頼は衰退していく過程を解説しています。

以上、設楽原周辺の史跡巡りコースのご紹介になります。
ここに記載の情報は、小生が訪れた2023年6月の情報になります。
周辺に飲食店はほとんどないため、おにぎりを持って散策してみてはいかがでしょうか。
お役に立てれば幸いです。

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