③ 設楽原・連吾川
主戦場となった設楽原は雁峰山から南流して豊川に注ぐ連吾川を挟む平地です。
平地とはいえ、南北に長い狭隘な窪地のような形状で、所々に丘陵の連なりや川などがあるほか、でこぼこだらけの難所です。

設楽原という名前からは広いように思われますが、戦いの中心となる家康の本陣(弾正山)と山県昌景の陣地(信玄台地)との間はわずか300m程度にすぎない距離でした。
また、 川に沿う部分の多くは湿地帯(湿田)でもあリ、しかも合戦当時は田植えを終えて間もなくのころで、一面の田には満々と水がたたえられていたはずです。しかも、前日には雨が降っていまたようです。
信長は三千挺の鉄砲を最も効果的に活用するために、強いて馬も人も疾走しにくいこの地を選んだうえに馬防柵をはりめぐらせて、武田軍の機動力を完璧なまでに封じこめることに成功したと考えられます。
現在、現地では馬防柵が約100mにわたって再現されているほか、周辺には戦いで命を落とした武将たちをまつる墓が点在しています。また、近くにある設楽原歴史資料館で受け取れる散策マップを参考にウォーキングしてみてはいかがでしょうか。






◆「徳川家康本陣跡」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:徳川家康本陣跡
長篠の戦いのとき、徳川家康は連吾川から西に300m離れた高松山に本陣を構えたと伝えられています。織田・徳川連合軍は徳川家康と佐久間信盛が最前線に陣を構え、対峙する武田軍は前線に馬場信房らの武田四天王が布陣し、背後に武田勝頼が本陣を置きました。
◆「馬防柵」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:馬防柵
武田騎馬隊の突進を防ぐだけでなく、火縄銃を乗せて狙撃の命中精度を上げ、連合軍を勝利へと導きました。連吾川沿いに全長2キロメートル、三重で作られていたようで、使われた丸太は信長の領地・岐阜から運び込まれ、現地調達はしていないといわれます。
アクセス
住所:愛知県新城市大宮清水1-9
クルマ🚙
新東名高速道路 新城ICから約3Km
電車🚉
JR飯田線 三河東郷駅から約1.5Km


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