「長篠の戦い」の関連史跡:横田綱松の墓

史跡

⑨ 横田綱松の墓

『甲陽軍艦』に拠れば、父は下総国千葉氏の一族で、甲斐国に土着し武田氏に仕えたという足軽大将・原虎胤。1

天文19年(1550年)の砥石城攻め(砥石崩れ)で武田家足軽大将である横田高松が戦死したために、横田高松の婿養子になり、家督を継いで武田信玄に仕えた。『軍鑑』によれば足軽大将として騎馬30騎・足軽100人を与えられていたという。
         ▶砥石城(長野県上田市)

永禄10年(1567年)8月に義信事件を受けて、信玄が家臣団に提出させた下之郷起請文にその名を連ねている。

武田信玄の没後は勝頼に仕えた。天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで息子3人とともに戦死した。享年51。跡を五男の尹松が継いだ。
尹松は武田氏が滅亡すると、家康の家臣となり使番軍監に任じられ、江戸幕府開幕後は旗本となっています。

👉案内板によると、横田綱松は親子4人で長篠・設楽原の合戦に参戦し、全員が討死したとあります。長男は三年前の三方原の合戦で戦死していると・・・

横田高松 長享元年(1487年)? ー 天文19年10月1日(1150年11月9日)

『甲陽軍艦』に拠れば、高松は元々は近江国甲賀郡の出身で、佐々木氏の一族で六角氏の家臣であったとされる。時期や事情は不明であるが、武田信虎の代に甲斐国に入り武田氏に仕えたとし、弓矢巧者で、足軽大将として甘利虎泰の相備えとなり、各地で戦功をあげたという。

天文17年2月14日(1548年)の上田原の戦い板垣信方、甘利虎泰の両宿将を失った信玄は、劣勢を挽回するべく天文19年9月9日(1550年)に信濃村上氏の拠点である砥石城を包囲した。
高松も参戦して攻撃を開始するが、難攻不落の様相を呈する天然の要害に手を焼き、武田軍はやむなく退却を始める。しかし、ここで村上軍が退却する武田軍に襲い掛かり大混乱に陥る。
世に言う砥石崩れであるが、高松は混乱する自軍を殿軍として支えて村上軍を一手に引き受けて戦死する(享年64とされる)。

アクセス

住所:愛知県新城市八束穂1041 

クルマ🚙
 新東名高速道路 新城ICから約2.5Km

電車🚉
 JR飯田線 三河東郷駅から1.3km

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