「長篠の戦い」の関連史跡:甘利信康の墓

史跡

⑧ 甘利信康の墓

長篠・設楽原の戦いでは山県昌景らとともに100騎の侍大将として左翼隊に属し徳川軍に対しました。
当初、勝楽寺前から竹広激戦地へと奮戦し、中央部隊とも合流して第3の柵をも破る勢いでした。が、、しだいに押し戻され、柳田前激戦地近くの天王山麓の庄屋屋敷まで来たときには、武田軍は総崩れとなっていました。

信康は、武田軍に協力するはずであった住民たちが寝返って織田徳川軍の人夫として堀や柵を作ったことを恨みながら、屋敷門扉に寄りかかり立ったまま切腹したといいいます。

甘利信康 天文4年(1535年)- 天正3年5月21日(1975年6月29日)

甘利虎泰の子として誕生。
晴信(信玄)勝頼2代に仕えた。永禄10年(1567年)3月6日には真田幸綱(幸隆)が白井上杉氏の拠点上野国白井城を攻略しており、これが初見とされる。

永禄10年(1567年)に兄・信忠(昌忠)が死去しており、信忠の子・信頼が幼少であったため名代を務めていたとも考えられている。
元亀3年(1572年)の三方ヶ原で参戦したといわれている。『甲斐国志』では信康を信忠の子弟とし、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで戦死したとしている。

アクセス

住所:愛知県新城市武弘65

クルマ🚙
 新東名高速道路 新城ICから約2.5Km

電車🚉
 JR飯田線 「三河東郷駅」下車 1.1km

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