② 関ケ原古戦場開戦地
慶長5年(1600年)9月15日の朝、前日夜の雨により関ヶ原一帯は濃い霧に包まれていましたが、朝8時頃になると、徐々に霧が晴れてきたと言います。
そんな中、先陣の福島正則の脇を、井伊直政と松平忠吉の部隊が進み出ました。
福島隊に陣借りしていた可児才蔵が呼び止めると、井伊直政は「松平忠吉が初陣なので、ちょっと敵陣を近くまで見に行かせたい」と言う説明をしたそうです。
しかし、これは井伊直政が、松平忠吉に一番槍の功名を与えたかったようで、天満山に布陣している宇喜多秀家に鉄砲を撃ちかけました。
もちろん、宇喜多勢は応戦し、先を越されたと思った福島正則も宇喜多秀家や小西行長と交戦状態に入り、「天下分け目の戦い」となった「関ヶ原合戦」が始まりました。
現在の標柱の位置は、圃場整備によって史跡指定時よりも約300m北に移動しているそうです。
また、この辺りは合戦場のほぼ中央に位置しており、各将の陣跡、史跡などの位置関係を確認すると、石田三成、徳川家康、そして各将の思いや、当時の状況を少し想像することができます。
ギャラリー










アクセス
住所:
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原1871
電車🚉
JR東海道本線 関ケ原駅より約1.5Km
(関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)
関連スポット
◆「松平忠吉・井伊直政陣跡」については、こちらもご参照ください

「関ケ原の戦い」の関連史跡:松平忠吉・井伊直政陣跡
松平忠吉は家康の四男で、関ケ原の戦いには舅の井伊直政と参戦しました。直政は初陣の忠吉に手柄を立てさせたいため宇喜多隊へ発砲し開戦しました。合戦の終盤、島津隊を追撃し戦果を挙げますが2人は傷を負います。2人が陣を敷いた跡を紹介しています。
◆「福島正則陣跡」については、こちらもご参照ください

「関ケ原の戦い」の関連史跡:福島正則陣跡
福島正則は豊臣恩顧の大名でしたが、文治派の石田三成との対立から関ケ原の戦いは東軍に参加。 開戦日未明に春日神社辺りに着陣し、開戦後、宇喜多隊に襲いかかりました。 陣跡に関ケ原合戦図屏風にも描かれた杉が残る福島正則の陣跡を紹介しています。
◆「宇喜多秀家陣跡」については、こちらもご参照ください

「関ケ原の戦い」の関連史跡:宇喜多秀家陣跡
開戦時宇喜多秀家は福島正則の鉄砲隊によっる一斉発砲を受けます。戦況は一進一退でしたが、小早川秀秋の裏切りで宇喜多軍は崩れ、秀家は戦場を逃れたといいます。戦後は八丈島への流罪となり他の武将よりも長生きした宇喜多秀家の陣跡を紹介しています。
◆「小西行長陣跡」については、こちらもご参照ください

「関ケ原の戦い」の関連史跡:小西行長陣跡
関ケ原の戦いで小西行長隊は戦闘開始の狼火をあげると、東軍の田中吉政らと交戦します。しかし、小早川秀秋らの裏切ると小西隊も崩れ敗走します。斬首の際、キリストとマリアの聖像画を掲げて斬首されたキリシタン大名小西行長の陣跡を紹介しています。
「関ケ原の戦い」関連史跡めぐりコース
◆「関ケ原の戦い」に関連する史跡巡りコースをご紹介しています。
こちらも合わせて、ご覧ください。

「関ケ原の戦い」の関連史跡めぐり
徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)が戦い、戦いに勝利した家康が天下を握ったことから「天下分け目の戦い」ともいわれ、歴史上有名な戦いの1つにあげられる関ケ原の戦い。その戦いに参加した武将の陣跡、開戦地などの史跡を巡るコースを紹介しています。
関ケ原の戦いについて
◆「関ケ原の」戦いについて、こちらもご覧ください

徳川家康25 関ヶ原に向けて・・・上杉討伐と石田三成の挙兵
慶長五年(1600)徳川家康は五大老の一人であった上杉景勝に謀叛の嫌疑を掛け討伐に乗り出します。さらにその隙を狙って石田三成も挙兵。天下分け目の関ケ原の戦いへと向かっていく上杉討伐の経緯と石田三成の挙兵について解説しています。

徳川家康26 小山評定から関ヶ原へ
家康が会津の上杉征伐へ向かう中、石田三成が挙兵します。小山評定で、諸将は三成との決戦を決めます。福島正則や池田輝政は岐阜城を落とし、家康も合流し、東軍は関ヶ原に向かいます。小山評定から関ヶ原に至る過程を解説しています。

徳川家康27 関ヶ原後の諸大名の処遇と徳川体制への布石
関ヶ原の合戦に大勝した家康は戦後処理を進めます。西軍の主要メンバーは戦死した大谷吉継を除き、市中引き回しの上処刑。東軍の主力であった豊臣大名は大幅な加増となりますが、地方へと転封となります。家康が自らの体制を築いていく過程を解説しています。



コメント