「関ケ原の戦い」の関連史跡:藤堂高虎・京極高知陣跡

史跡

⑩ 藤堂高虎・京極高知陣跡

現在の関ケ原中学校の敷地内に、「藤堂高虎京極高知陣跡」の標柱が建っています。
合戦時には、福島正則隊に続いて東軍左翼縦隊の第2陣として進軍しました。
なお、この陣跡は過去に何度も移転を繰り返し、今の場所に置かれたそうです。

京極高知は早くから豊臣秀吉に仕え、功により羽柴姓を許されました。その後秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)には岐阜城攻めに参戦します
関ヶ原の戦いでは、平塚為広大谷吉継隊に対して藤堂高虎と共に戦うなどの戦功を挙げます。戦後は丹後一国12万3000石を与えられ、丹後藩初代藩主となりました。

👉兄の京極高次は、東軍として大津城にて籠城を続けていました。9月14日の夜まで西軍・立花宗茂らの猛攻を、9月14日夜まで耐え抜き、15000とも4万とも言われる立花宗茂・毛利元康らは、9月15日の関ヶ原に間に合いませんでした。

藤堂高虎は幼少の頃より人並み外れた体格で、筋骨逞しい身体であったといいます。
天正4年(1576年)に羽柴秀吉の弟・羽柴長秀(豊臣秀長)に300石で仕え、数々の戦功を挙げていきます。
1586天正14年(1586年)には秀長に聚楽第の邸内に徳川家康の屋敷を作るよう命じられますが、警備上の難点があるとして、独断で設計を変更、費用は自分の持ち出しとしたといわれます。
慶長3年(1598年)8月の秀吉の死去直前から、徳川家康に接近。
高虎は元々家康と親交を有しており、豊臣氏の家臣団が武断派・文治派に分裂すると、高虎は徳川家康側に与しました。
慶長5年(1600年)関ヶ原本戦では早朝、大谷吉継を相手に戦闘。その後、山中へ転戦して石田三成と戦ったとされます。また、近江時代の人脈を活かし脇坂安治小川祐忠朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への内応工作を行っています。
戦後、これらの軍功により家康からはそれまでの宇和島城8万石の安堵の他、新たに今治城12万石が加増され、合計20万石となりました。

ギャラリー

アクセス

住所:
 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原262

電車🚉
 JR東海道本線 関ケ原駅より約900m
 (関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)

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