「関ケ原の戦い」の関連史跡:細川忠興陣跡

史跡

⑧ 細川忠興陣跡

細川忠興は豊臣恩顧の武将でしたが、石田三成とは仲が悪く、この関ケ原の合戦では最初から東軍として参戦しました。

徳川家康会津征伐のため大坂を留守にし、三成が妻子らを人質に取ろうとした際には、忠興の妻・玉(ガラシャ)はこれを拒絶して命を絶ちました。
さらに父・細川幽斎(藤孝)が守る田辺城は西軍によって包囲されてしまい、三成への増悪の念は深まったと言われています。

戦いの当日は約5千の兵を率い、岡山烽火場の麓、相川の南付近に布陣し、黒田長政竹中重門隊とともに、笹尾山の石田隊を攻め、壊滅させました。
戦後、18万石だった細川家は小倉藩39万9000石の大封となりました。

また、細川忠興は実戦に向いている武具、すなわち「甲冑」や「兜」の開発をしたことでも知られます。
関ヶ原合戦では、越中頭形兜(えっちゅうずなりかぶと)を被っていたとされます。

※忠興が身につけた兜:側頭部から後頭部にかけて熊の毛を植えて引廻しとし、頭上に山鳥の尾を逆立てた兜

ギャラリー

アクセス

住所:
 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原811-104

電車🚉
 JR東海道本線 関ケ原駅より約800m
 (関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)

関連スポット

◆「岡山(丸山)烽火場」については、こちらもご参照ください

「関ケ原の戦い」の関連史跡:岡山(丸山)烽火場
慶長5年(1600年)関ケ原の戦い時には、竹中重門と黒田長政は岡山に陣取り、戦機を見て烽火(のろし)をあげました。山頂からは周辺を見渡せ、烽火を上げる最適な場所でした。開戦を伝える烽火を上げた岡山(丸山)烽火場を紹介しています。

「関ケ原の戦い」関連史跡めぐりコース

◆「関ケ原の戦い」に関連する史跡巡りコースをご紹介しています。
こちらも合わせて、ご覧ください。

「関ケ原の戦い」の関連史跡めぐり
徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)が戦い、戦いに勝利した家康が天下を握ったことから「天下分け目の戦い」ともいわれ、歴史上有名な戦いの1つにあげられる関ケ原の戦い。その戦いに参加した武将の陣跡、開戦地などの史跡を巡るコースを紹介しています。

関ケ原の戦いについて

◆「関ケ原の」戦いについて、こちらもご覧ください

徳川家康25 関ヶ原に向けて・・・上杉討伐と石田三成の挙兵
慶長五年(1600)徳川家康は五大老の一人であった上杉景勝に謀叛の嫌疑を掛け討伐に乗り出します。さらにその隙を狙って石田三成も挙兵。天下分け目の関ケ原の戦いへと向かっていく上杉討伐の経緯と石田三成の挙兵について解説しています。
徳川家康26 小山評定から関ヶ原へ
家康が会津の上杉征伐へ向かっている最中、石田三成が挙兵します。家康は諸将を呼び寄せた小山評定で三成との決戦に決します。福島正則や池田輝政は岐阜城を落とし、家康も合流し、関ヶ原に向かいます。三成の挙兵から関ヶ原に至る過程を解説しています。
徳川家康27 関ヶ原後の諸大名の処遇と徳川体制への布石
関ヶ原の合戦に大勝した家康は戦後処理を進めます。西軍の主要メンバーは戦死した大谷吉継を除き、市中引き回しの上処刑。東軍の主力であった豊臣大名は大幅な加増となりましたが、遠隔地へと転封となります。家康がいかに自らの体制を築いていったか解説しています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました