「関ケ原の戦い」の関連史跡:石田三成陣跡

史跡

① 石田三成陣跡

関ケ原決戦地の北西に位置する小さな山が笹尾山で、陣跡には敵の攻撃を防御した竹矢来・馬防柵が復元されています。
関ケ原の南西にある北国街道は軍事上重要なポイントで、そのような背景もあって石田三成島左近と共にここ笹尾山に布陣したと考えられています。
この笹尾山からは古戦場全域を見渡すことができ、当時の様子を想像するに難しくありません。

決戦前日の慶長5年(1600年)9月14日の夜半に大垣城を出た三成は、合戦当日の午前1時頃にここに陣を構え、200m東に二重の柵(馬防柵・竹矢来)を築き、島左近を左翼に、蒲生郷舎(がもうさといえ)を右翼に配し、総勢6000の兵で、東軍の黒田長政細川忠興ら1万3000にも及ぶ大軍を相手に激戦を繰り広げます。

西軍は総戦力で東軍を上回っていたとされますが、開戦当初に積極的に戦っていたのは石田三成、宇喜多秀家小西行長大谷吉継らごく一部だったとされます。それでも石田勢の奮戦は味方を支え続け、正午頃まで一進一退の攻防が続いていました。
しかし、小早川秀秋が西軍を裏切ると、脇坂安治らの諸将も裏切ります。小早川勢らが大谷勢の側面を突いたことを機に、大谷勢や小西勢、宇喜多勢の陣が崩れ、大谷吉継も落命します。
そして、最後に残った石田勢や島津勢に東軍諸勢が押し寄せていた状況であったと考えられます。

結果的に、三成は大惨敗を喫して、敗走。
合戦から6日後の9月21日、三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛されます。
10月1日、豊臣家に忠義をつくした三成は、家康の命により六条河原で斬首。京都・大徳寺の三玄院に葬られています。享年41。

ギャラリー

アクセス

住所:
 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原4008

電車🚉
 JR東海道本線 関ケ原駅より約1.6Km
 (関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)

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