⑥ 田中吉政陣跡
田中吉政は羽柴秀次の筆頭家老格として活躍した武将でした。徳川家康が関東へと転封になると、吉政には三河国岡崎城5万石が与えられました。
秀次が自害させられた際に連座せず、逆に10万石の領主に加増されています。
▶岡崎城(愛知県岡崎市)

秀吉が死去すると徳川家に近寄り、東軍として参戦した関ヶ原の合戦前の岐阜城攻略では黒田長政、藤堂高虎とともに大垣城から岐阜城へ向かう西軍を殲滅しました。


その吉政が布陣したといわれる場所は徳川家康最後陣跡のすぐ隣にあります。
田中隊はここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山麓より討って出る先手の兵と激突したと伝わります。
田中吉政は合戦後6日目に伊吹山中で逃走中の石田三成を捕縛。
三成は腹痛で病んでいたが、医師の勧める薬は拒否したため、吉政は熟慮のうえ、健康によいという理由付けをしてニラ粥を勧めたので三成はそれを食したといわれています。
戦後に吉政は筑後32万石の国持大名に加増されています。
ギャラリー




アクセス
住所:
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原959-2
電車🚉
JR東海道本線 関ケ原駅より約600m
(関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)
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