④ 松平忠吉・井伊直政陣跡
松平忠吉
松平忠吉は徳川家康の四男で、母は西郷局で、兄の秀忠と同母になります。
小牧・長久手の戦後は、羽柴秀吉と父・徳川家康の和睦条件のため、人質として大坂に送られていました。
慶長5年(1600年)石田三成挙兵に対して、東海道を進む東軍諸将の先手大将とされ、関ケ原の戦いには舅(しゅうと)井伊直政と先駆して名をあげましたが、終盤には島津隊を追撃して負傷しました。
戦後、尾張国清洲城主となり、尾張国(知多・海西2郡と中島郡の一部を除く)を領有。
家康の代理として西国に対しました。
井伊直政
井伊直政は事実上の総大将で先鋒役の意識が強く、直政の娘婿で初陣でもある松平忠吉に手柄を立てさせたい一念でした。
東軍先鋒は福島隊と決まっていましたが、午前8時頃に、福島隊の先頭隊長・可児才蔵の制止を振り切り、宇喜多隊へ発砲し開戦となりました。
合戦の終わり頃、島津隊が敵中突破を試みた際には、直政と忠吉は戦場から離脱する島津豊久を追撃し、大きな戦果を挙げます。
しかし、2人とも島津隊兵士に狙撃されて傷を負ってしまいます。特に、直政の傷は深く、その傷がもとで2年後にこの世を去ってしまいます。
ギャラリー






アクセス
住所:
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原908-3
電車🚉
JR東海道本線 関ケ原駅より約260m
(関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)
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