「関ケ原の戦い」の関連史跡:小西行長陣跡

史跡

④ 小西行長陣跡

慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原本戦で、小西行長は北天満山の裾野を流れる梨木川右岸にある西田公園付近に6千余の兵を率いて陣を構えました。ここは、北は北国街道、南は中山道を押さえる重要な場所でした。
山頂に布陣できるスペースはなく中腹に布陣し、山頂は狼火をあげるために使われたと思われます。

小西隊は、午前8時頃に戦闘開始の狼火をあげ味方に合図をすると、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦します。
しかし、小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は美濃の菩提山中に逃れ、9月19日、関ヶ原の庄屋・林蔵主に匿わます。
行長は自らを捕縛して褒美をもらうように林蔵主に薦めますが、林はこれを受けませんでした。林は竹中重門家臣の伊藤源左衛門・山田杢之丞両名に事情を話すと、共々行長を護衛して草津の村越直吉の陣に連れて行きました。

その後、行長は10月1日に市中引き回しの後、六条河原において石田三成安国寺恵瓊と共に斬首されます。
その際、行長はキリシタンであったため、僧侶によって頭上に経文を置かれることを拒絶し、ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコン(聖像画)を掲げて3度頭上に戴いた後に首を打たれたと伝えられます。処刑後、首は徳川方によって三条大橋に晒されました。
イエズス会側の史料によると、行長の遺体は教会に引き取られた後で秘蹟を受けてカトリック式で葬られたといいますが、埋葬場所は不明です。

ギャラリー

アクセス

住所:
 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原4120-6

電車🚉
 JR東海道本線 関ケ原駅より約1.5Km
 (関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)

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