④ 柳田前激戦地
武田軍中央隊が主に激戦を行った戦地を総称して「柳田前」と呼び、武田軍の武田信廉・内藤昌豊・原昌胤 らが激戦を繰り広げました。
また、生き残った各隊が中央隊と合流し、最後の戦闘を行ったところでもあります。

柵前に溢れ出した連合軍を相手に、天王山のふもとにあたるこの柳田の辻までじりじりと押し戻された甘利信康もその奮闘もむなしく自らの命を断ちました。




◆「内藤昌豊の墓」については、こちらもごらんください。

「長篠の戦い」の関連史跡:内藤昌豊の墓
長篠の戦いで内藤昌豊は撤退を主張するも勝頼は承知しませんでした。設楽原で昌豊は左翼で奮戦。しかし、山県昌景が討ち死にを知ると、勝頼に退却を進言。勝頼を馬場信春とともに退却させたあと、殿として本陣に踏みとどまり、奮戦の末、討ち死にしました。
◆「原昌胤の墓」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:原昌胤の墓
設楽原で昌胤は、武田軍の最左翼山県昌景の隣に甘利信康と布陣。大久保忠世、大須賀康高隊と戦います。昌胤は、山県と9回突撃するも柵を破れず、山県が討ち死にを知ると、山県隊を吸収し踏みとどまりますが、織田鉄砲隊の一斉射撃を受け討ち死にします。
◆「甘利信康の墓」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:甘利信康の墓
長篠の戦いでは山県昌景らと100騎の侍大将として左翼隊に属しました。当初は第3の柵をも破る勢いでしたが、次第に押し戻され、柳田前激戦地近くまで来たときには、武田軍は総崩れとなっていました。信康は立ったまま切腹したといいいます。
アクセス
住所:愛知県新城市竹広70
クルマ🚙
新東名高速道路新城ICから約2.5km
電車🚉
JR飯田線 三河東郷駅から徒歩16分

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