「関ケ原の戦い」の関連史跡:脇坂安治陣跡

史跡

⑩ 脇坂安治陣跡

脇坂安治陣跡は、関ケ原の南方、大谷吉継らの陣の南東、小早川秀秋が陣を敷いた松尾山のふもとにあります。
脇坂安治は朽木元綱小川祐忠・赤座直保とともに西軍として布陣しましたが、小早川秀秋隊が寝返ると4隊とも大谷隊へ攻撃をしかけ、最終的には東軍を勝利に導きました。

慶長5年(1600年)6月、会津征伐では、安治は大坂に留まり、次男の安元が関東に下向し徳川方に参陣しようとしましたが、途中で石田三成に遮られ止む無く、近江から大坂へ戻ることになりました。
安治も石田三成が挙兵したときは大坂に滞在していたため、やむなく約1,000名の兵を率いて西軍に付いたとされます。
関ケ原での本戦当日、午前の動きはみられません。しかし、午後に入り小早川隊が大谷吉継隊を攻撃すると、それに乗じて他の3将と共に東軍に寝返り、平塚為広・戸田勝成の両隊を壊滅させました。また、その後の石田三成の居城・佐和山城攻略にも従軍しています。
戦後処理では、脇坂安治は事前に徳川家康に意を伝えていたため処分を受けずに所領安堵されましたが、朽木元綱は減封、中村祐忠と赤座直保は改易の処分を受けています。

賤ケ岳の七本槍のひとり

脇坂安治は、豊臣秀吉柴田勝家が激しく戦った、賤ヶ岳の戦い(1583年)の豊臣軍として手柄を立てた「賤ヶ岳の七本槍」の一人でした。
他には福島正則加藤清正などがいます。

その後、徳川政権になってから「賤ヶ岳の七本槍」の大半が御家潰しなど苦難に遭った中、脇坂家は幕末まで繁栄することができたので、安治はあらゆる面で優れた武将だったと考えられます。

ギャラリー

アクセス

住所:
 岐阜県不破郡関ケ原町藤下

電車🚉
 JR東海道本線 関ケ原駅より約1.9Km
 (関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)

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