「関ケ原の戦い」の関連史跡:平塚為広の碑

史跡

⑥ 平塚為広の碑

平塚為広の碑は「大谷吉継陣跡」の山を下りて道の東側にあります。
関ケ原に隣接した美濃垂井(1万2千石)を治めていたこともあってか、いち早く西軍として参戦しました。その背景には、吉継と為広が盟友であったという話もあるようです。
なお、平塚隊は、大谷隊前方に布陣し、病身の吉継に代わって為広が指揮していたとされています。
ちなみに、この碑は平塚家8代為忠の次男で、評論家・女性解放運動家として有名な、平塚らいてうの父である平塚定二郎により建立されました。

関ケ原の戦いで平塚為広隊の正面に迫ってきたのは藤堂高虎隊と京極高知隊でした。
平塚隊は戸田重政隊を加えて千五百、対する藤堂・京極隊は五千五百。四倍近い敵に対しても平塚・戸田隊は怯むことなく敵を押し返し、不破関跡近くまで撃破したと伝えられています。

午前中の戦いは一進一退、ほぼ互角の戦いが続きました。
しかし、午後に入るとその松尾山の小早川隊一万五千が西軍大谷吉継隊に向かって突撃。平塚為広、戸田重政ともに馬首を返して大谷隊支援のために小早川隊の側面を突き、三度押し返しました。
しかし、小早川隊の寝返りに呼応して松尾山麓に布陣していた脇坂安治朽木元網小川裕忠、赤座直保の隊が平塚、戸田、大谷の隊へ突撃してくるとさすがに押され気味となり、さらに藤堂、京極隊も加わると平塚、戸田、大谷隊は防戦一方となり、乱戦となります。

そこへ第三陣の織田有楽隊が加わり、ついに戸田重政が織田長孝(有楽の長男)らに討たれて戦死。
平塚為広も「もはやこれまでか」と討ち取った小早川家臣横田半助の首に辞世の句を添えて大谷吉継のもとへ送ります。
「名の為に 捨つる命は 惜しからじ 遂にとまらぬ 憂世と思へば」
辞世を送った平塚為広は勇躍、敵勢の中に身を投じ、討死したとされます。

ギャラリー

アクセス

住所:
 岐阜県不破郡関ケ原町藤下445-4

電車🚉
 JR東海道本線 関ケ原駅より約2.0Km
 (関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)

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