「関ケ原の戦い」の関連史跡:大谷吉継陣跡

史跡

⑧ 大谷吉継陣跡

大谷吉継陣跡」は、山中の「大谷吉継の墓」から少し下った場所にあり、ひっそりと碑が建っています。
大谷隊は、関ケ原の合戦が始まる十日程前に若宮八幡宮上の急斜面に陣を作り始めました。当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面のこの地に陣を定めたといわれます。
この陣は空堀を左右に巡らせれていました。官僚としても優秀であった大谷吉継は、戦術にも長け、陣作りにも力を発揮したことを示しています。

合戦が始まると大谷勢は、戸田重政の父子、平塚為広と共に寺沢広高らと戦いました。
そして、小早川秀秋が寝返り15000の兵がが横から襲って来ると、大谷吉継が500の兵で対応したといわれます。
小早川勢の監視役であった奥平貞治に重傷を負わせるなど奮戦しますが、脇坂安治小川祐忠朽木元網、赤座直保ら4200も寝返ります。
この劣勢を大谷勢は覆す事はできずに、大谷勢は壊滅します。

石田三成など多くの西軍武将は、関ヶ原からの脱出に成功しています。
しかし。大谷吉継は自害を選択しました。

ギャラリー

アクセス

住所:
 岐阜県不破郡関ケ原町藤下

電車🚉
 JR東海道本線 関ケ原駅より約2.1Km
 (関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)

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