「関ケ原の戦い」の関連史跡:大谷吉継の墓

史跡

⑨ 大谷吉継の墓

大谷吉継の墓は陣跡から山を分け入ったところに、ひっそりと建っています。傍らには吉継の側近である「湯淺五助」の墓もあります。

大谷吉継は小早川秀秋の寝返り後、藤堂高虎隊や京極高知隊などと激戦を繰り広げました。しかし、次々と味方の武将も討ち死にし、もはやこれまでと自刃し、五助が介錯を務めました。

ライ病(ハンセン病)を患っていた吉継は、五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と言い遺して果てました。五助は主君の命を守り、吉継の首を戦場から離れた場所に埋めました。
その時、藤堂仁右衛門高刑(藤堂高虎の甥)に捕らわれてしまいました。

五助は「主人は病み崩れた顔を人目に晒したくないと言い遺された。我が首を差し出します故、代わりに主君の首をここに埋めた事を秘して下さらぬか」と頼み、藤堂高刑はそれを受けて五助の首を取りました。

敵ながらに感心した藤堂は、家康からの詰問にも決して吉継の首の所在を口外せず、合戦後、約束通り大谷吉継の墓をこの地に建てたとされています。

ギャラリー

付録:湯浅五助の墓

付録:大谷吉継の首塚

滋賀県米原市に「大谷吉継の首塚」があります。
首塚の由来は、西軍の敗北を悟った吉継が、敵に首を渡さないよう、湯浅五助の介錯で自刃し、甥の祐玄(ゆうげん)が首級を錦の袋に入れて、敦賀への逃亡の途上に、この地に埋め隠したと伝わります。

アクセス

住所:
 岐阜県不破郡関ケ原町藤下

電車🚉
 JR東海道本線 関ケ原駅より約2.5Km
 (関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)

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