徳川家康

徳川家康9 松平信康事件の真相とは?

天正7年(1579年)に徳川家康の嫡男・信康、正妻・築山殿が自刃する事件が起こります。通説では信康正妻・徳姫が父の織田信長に信康・築山殿の不正を訴え、信長が自刃を命じたとされます。事件の推移、三河の情勢などから、この事件に触れています。
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徳川家康10 武田氏滅亡の過程は?

御館の乱の対応で武田氏は北条氏と対立、木曽義昌、穴山梅雪らの重臣も離反します。天正10年(1582)織田信長は甲州征伐を決めます。織田勢に不利な情勢となり、ここでも小山田信茂が離反し勝頼は討たれます。武田氏が滅亡に至る過程に触れています。
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徳川家康11 本能寺の変と家康の対応は?

武田征伐後、堺見物をしていた家康は、本能寺の変の報に触れます。追腹しようとしますが、重臣達の意見で三河に戻って弔い合戦をすることを決意します。家康の本能寺の変前後の行動、また家康の「三大危機」に数えられる「伊賀越え」について触れています。
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徳川家康12 信長亡き後、家康の行動は?・・・天正壬午の乱

本能寺の変を受け、甲斐・信濃・上野にも動揺が広がります。北条氏や上杉氏が旧武田領に触手を伸ばし、家康も信濃に進出し天正壬午の乱が始まります。織田家の要請を受けて和睦しますが、乱の発生経緯から終結まで各地の情勢を交えながら触れています。
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徳川家康13 天正壬午の乱後の五カ国領有と領国化

天正壬午の乱のあと、徳川家康は5ヵ国を領有する大名となります。従来の三河国・遠江国・駿河国に加え、新たに組み込まれた甲斐国・信濃国で、武田旧臣などの在地勢力とどのように関わり、統地をどのように進めていったのかについて触れています。
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徳川家康14 信長亡き後、羽柴秀吉は如何に織田家の主導権を握ったか? そして、その時家康は?

信長亡き後、後継を巡る主導権争いが起こります。信忠嫡男・三法師、信長次男・信雄、信長三男・信孝に羽柴秀吉、柴田勝家など宿老の思惑も絡んだ争いとなり、最後は秀吉が勝利します。信長亡き後の織田家での権力争いを解説しています。
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徳川家康15 小牧・長久手の戦いと秀吉天下人への過程とは?

織田信雄は親秀吉派家臣を粛清し、秀吉と断交します。家康も織田家親戚大名として信雄を支持。一方、秀吉はこの行為を敵対行為とみなし両軍は戦いへ(小牧・長久手の戦い)。圧倒的兵力の差から秀吉が勝利。戦いの状況、秀吉の天下人への過程を説明しています。
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徳川家康16 真田氏の離反、石川数正の出奔、そして秀吉の「家康成敗」へ至る過程

天正壬午の乱の和睦条件により家康が真田氏に沼田領の引き渡しを求めると、天正十三年(1585)真田氏は家康から離反します。同年十一月、宿老石川数正が秀吉のもとに出奔します。秀吉との対立に至る真田氏との関係は?宿老数正出奔の謎を解説しています。
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徳川家康17 秀吉への臣従と秀吉の天下統一「惣無事令」とは?

天正13年(1585)徳川家康と豊臣秀吉は対決が避けられない状況でしたが、天正大地震により融和路線に替わり、家康は秀吉に出仕します。家康が秀吉に出仕する過程と豊臣政権における立場と役割、秀吉の惣無事令に基づいた九州征伐ついて触れています。
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徳川家康18 「関東・奥惣無事」活動と北条氏への対応(小田原攻めへの過程)

家康の「関東・奥両国惣無事」活動の役割は北条氏に秀吉への従属を促すことでした。北条氏は明確な態度を示めさず、防備を固めます。家康が北条氏に最後通告すると、氏規が上洛し臣従の意を示します。しかし北条氏が真田領の名胡桃城を奪ったことで秀吉は討伐を決意します。小田原征伐に至る秀吉、家康、北条氏の関係と経緯に触れています。
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徳川家康19 「関東・奥両国惣無事」活動としての小田原合戦と秀吉の奥州仕置き

「関東・奥両国惣無事(関東・奥州平定)」を進める秀吉は、北条氏への攻撃を決意、小田原城を包囲し降伏させます。そして、関東・奥州の要として家康に関東移封を命じ、奥州仕置きに取り掛かります。小田原合戦から奥州平定に至る過程を解説しています。
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徳川家康20 家康の関東統治構造

家康が入部した頃の江戸は、水陸交通の要所であり政治の拠点ともなっていました。この江戸を中心に家康はどのように関東を統治していったか。家康が領国の平和維持のために、巧みに一門衆、重臣を領地に配置した構造や意味について解説しています。
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徳川家康21 文禄の役の経緯と家康の関係

国内を統一した秀吉の目は東アジアに向けられます。天皇が東アジアの頂点に立ち、自身はその保護者となることを目指した壮大な構想のもと、朝鮮に兵を進めます。文禄の役の経緯と秀吉が目指した東アジアの支配とそれにかかわる家康について解説しています。
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徳川家康22 豊臣秀次事件と秀頼体制

秀吉の後継男子・拾の誕生で、秀吉と甥で関白の秀次の関係に変化が生じます。秀次は謀叛の疑いを掛けられ、秀吉に許されず、高野山に出奔し自害します。秀吉は拾(豊臣秀頼)体制の準備を進めます。秀次事件が発生した背景と拾体制への布石を解説しています。
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徳川家康23 秀頼体制への移行と五大老・五奉行

秀吉は秀頼へ天下人を継承させるべく、数え年六歳にして縦二位権中納言にする等、その立場を固めることに勤みます。慶長三年、病の身にあった秀吉は自らの死期を悟り、秀頼を支える五大老・五奉行体制に移行させます。その移行過程と役割を解説しています。