「長篠の戦い」の関連史跡めぐり2 ~長篠城周辺~

史跡巡りコース

長篠の戦いとは

天正3年(1575)5月三河 (愛知県) 設楽原における武田勝頼と、織田信長徳川家康の連合軍との戦い。
勝頼は、天正2年(1574) 年遠江 (静岡県) の高天神城を落とすと、その勢いに乗って翌年長篠城をを囲みます。城主奥平定昌 (のち信昌) の要請により、信長と家康が出陣。
極楽寺山に陣した信長は馬防柵を設け、3000梃の鉄砲隊で勝頼の騎馬隊を大敗させました。
この戦いは、その後の築城法や戦術に画期的変化をもたらしました。

地図中の「長篠の戦い」の関連史跡をめぐるコースと、各史跡についてご紹介しています。

赤数字:織田・徳川軍関連史跡青数字:武田軍関連史跡黒数字:主な戦闘場所


以外はこちらをご参照ください。

「長篠の戦い」の関連史跡めぐり1 ~設楽原周辺~
長篠・設楽原の戦いで設楽原周辺に残る本陣跡や武将の墓などの史跡を巡るコース紹介と各史跡を説明しています。馬防柵、火縄銃など、その後の築城法や戦術に画期的変化をもたらしたといわれる設楽原の戦いの史跡めぐりのコース設定にお役立てください。

1:① 鳥居強右衛門の墓

天正3年(1575年)の長篠合戦では、「喜船庵」(現在の新昌寺)のある有海の地は戦場となります。
特に篠場野の地には奥平家忠義の臣・鳥居強右衛門勝商の礫死跡の碑が立っており、強右衛門は「喜船庵」に埋葬されました。 (観覧時間15分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:鳥居強右衛門の墓
天正3年武田勢に長篠城が包囲されると、鳥居強右衛門は城を脱出して徳川家康に援軍を求めた。しかし、武田軍に捕まり嘘を強要されますが、援軍が来ることを伝え、その場で磔に処せられたといいいます。新昌寺の強右衛門の墓を写真とともに触れています。

                          ➡ ➡ ➡ 鳥居強右衛門磔の地へ車で移動

2:② 鳥居強右衛門磔の地 鳥居強右衛門の墓から車で3分

奥平家忠義の臣・鳥居強右衛門勝商が武田軍に見つかり磔となった場所になります。
碑は豊川沿いにありますが、手前に駐車スペースがあり、徒歩で向かいました。
豊川対岸の長篠城の断崖を望むことが出来ます。      (観覧時間15分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:鳥居強右衛門磔の地
天正3年5月、長篠城は武田勝頼に取り囲まれ窮地に陥ります。その時、鳥居強右衛門が徳川氏への救援要請に志願。承諾を得て城に戻る途中、武田の兵に捕まります。嘘をつくことを拒否して磔となった強右衛門のエピソードと磔の碑について触れています。

                               ➡ ➡ ➡ 馬場信春へ車で移動

3:④ 馬場信春の墓 鳥居強右衛門の墓から車と徒歩で10分

馬場信春は武田軍の殿を務め、勝頼が退却したのを見届けると、追撃する織田軍と戦い、首を差し出したとも、討ち死にしたとも伝わります。
墓の近辺で駐車場はありません。地図上で近くの駐車場を探し、徒歩で向かってください。     (観覧時間10分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:馬場信春の墓
武田四天王の一人。川中島の戦い、駿河侵攻、三方ヶ原の戦い等で武功をあげる。信玄の死後は勝頼を補佐する。長篠の戦いでは武田軍の右翼に陣取り奮戦するが、勝頼に撤退を進言し、自らは殿を務めた。勝頼撤退を見届けると命を落とした。

                                ➡ ➡ ➡ 長篠城へ車で移動

4:① 長篠城 馬場信春の墓から車で5分

天正3年5月21日(1575年6月29日)、父・信玄の跡を継いだ武田勝頼が1万5千の兵を率いて長篠城の奪還を試みたことによって長篠の戦いが始まります。
駐車場有。長篠城址史跡保存館が併設されています。
鳥居強右衛門の磔地、鳶ヶ巣砦等を望むことができます。  (観覧時間40分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:長篠城
長篠城は長篠菅沼氏の2代当主・菅沼元成によって1508年(永正5年)に築城されました。徳川氏に属していた天正3年(天正3年)武田勝頼に攻囲され、長篠の戦いが始まる舞台となります。長篠城の歴史、長篠の戦いの関連の場所ついて触れています。

                                ➡ ➡ ➡ 医王寺へ車で移動

5:① 医王寺 長篠城から車で15分

天正3(1575)年の長篠の戦いの時、武田勝頼が最初の本陣を背後の医王寺山に置きました。
境内の弥陀が池には勝頼の伝説が残る「片葉の葦」が生えています。
          (観覧時間15分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:医王寺
長篠山医王寺は永正11年(1514)の創立。曹洞宗で薬師如来を本尊とします。天正3年(1575)長篠の戦いの時、武田勝頼が本陣を背後の山に置きます。出撃前夜、夢に現れた老人がの腕を切り落としたため、境内の葦が全て片葉になった伝説が残ります。

➡ ➡ ➡ 医王山 武田勝頼本陣跡へ徒歩で移動

6:② 医王山 武田勝頼本陣跡 医王寺より徒歩で15分

この陣城は、丘陵の先端部で比高差約30mをもつ標高約120mの位置に立地しています。
約600mの南方の長篠城に睨みを利かす位置にあたり、また、武田軍の各陣をくまなく展望することができます。
医王寺より徒歩で向かってください。
(観覧時間10分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:医王山 武田勝頼本陣跡
武田勝頼本陣は、天正3年(1575)の長篠の戦いの際、勝頼が医王寺の裏山に陣城として築きます。 標高約120mに位置し、 約600m南方に位置する長篠城を監視し、また、武田軍の各陣を確認できました。さらに長篠救援軍の動きも確認できました。

                        ➡ ➡ ➡ 医王寺へ戻り、鳶ヶ巣砦へ車で移動

7:③ 鳶ヶ巣山砦 医王寺から車で15分

天正3年(1575年)の長篠の戦いの際、鳶ヶ巣山砦は眼下に長篠城を見ることができる監視の要所でしが、酒井忠次の攻撃を受けて壊滅しました。
道は狭い場所もありますので、運転には注意してください。駐車場があり、徒歩10分ぐらいで現地に到着します。
(観覧時間10分)

史跡の詳細は、こちらをご参照ください

「長篠の戦い」の関連史跡:鳶ヶ巣山砦
天正3年(1575)の長篠の戦いの際、武田軍は鳶ヶ巣山砦をはじめ5つの砦を築き長篠城を監視しました。長篠城救済のため酒井忠次が、四千の兵を率いて砦を奇襲。激戦となりますが、多くが討死して砦は落城。長篠城の城兵と合流することができました。

参考

の戦いについては、以下のコンテンツもご参照ください。

徳川家康7 武田勝頼の侵攻(長篠の戦いへ向かう過程)と信康事件のきっかけ
信玄の死で家康は領地の回復に成功。しかしあとを継いだ勝頼は遠江、美濃、三河に進軍を開始します。その時、信康の家臣が武田氏に内通するなど苦しい展開で、長篠城が取り囲まれます。家康と勝頼の戦いと長篠の戦いにつながる経緯について触れています。
徳川家康8 長篠の戦いの戦略と遠江平定への道のり
天正三年(1575)五月二十一日、奥三河の要衝・長篠城を巡る戦いが織田・徳川連合軍と武田軍の間で起こります。織田・徳川軍を勝利に導いた戦略とは?戦後、信長は天下人への道を進み、家康は遠江へ領土拡大、勝頼は衰退していく過程を解説しています。

以上、設楽原周辺の史跡巡りコースのご紹介になります。
ここに記載の情報は、小生が訪れた2023年6月の情報になります。
お役に立てれば幸いです。

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