「長篠の戦い」の関連史跡:丸山砦

史跡

① 丸山砦

ここ丸山は、はじめ織田軍の佐久間信盛が6,000の兵で陣を敷きましたが、後に武田軍の馬場信春が700の少数部隊でこれを攻め占拠しました。
この勢いに乗じて、真田信綱昌輝兄弟、土屋昌次 らが 馬防柵の第一柵を突破し、大宮激戦地へと展開していきました。

丸山砦は武田軍・右翼の要石となる場所にあったので、馬場信春は終始、ここから動けませんでした。つまり最初から最後まで、戦場を俯瞰して見ていたはずです。

敗戦と決まったとき、信春は殿軍を務めます。勝頼を逃すため、最後まで戦場に踏みとどまって討ち死にしたのです。

◆「真田兄弟の墓」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:真田兄弟の墓
真田幸村の父・昌幸の兄である信綱と昌輝は、長篠の戦いで、馬場信春、土屋昌続らと右翼に構え、丸山砦の佐久間信盛との戦いで討死しました。真田源太左衛門尉信綱、真田兵部丞昌輝の名が彫られた墓と共に奮戦した家臣の墓も同じ場所にあります。

◆「土屋昌次の墓」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:土屋昌次の墓
長篠の戦いで、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らと撤退を進言したと言われるが、武田勝頼は決戦を決定する。戦が始まると、真田信綱・昌輝らと右翼の天神山に陣を敷いた。大宮前激戦地で織田勢の三重柵の二重まで突破したが、一斉射撃を受け戦死したという。

◆「馬場信春の墓」については、こちらもご覧ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:馬場信春の墓
武田四天王の一人。川中島の戦い、駿河侵攻、三方ヶ原の戦い等で武功をあげる。信玄の死後は勝頼を補佐する。長篠の戦いでは武田軍の右翼に陣取り奮戦するが、勝頼に撤退を進言し、自らは殿を務めた。勝頼撤退を見届けると命を落とした。

アクセス

住所:愛知県新城市須長辻脇

クルマ🚙
 新東名高速道路新城ICから約2.2km
電車🚉
 JR飯田線 三河東郷駅から徒歩25分

コメント

タイトルとURLをコピーしました