⑩ 内藤昌豊の墓
昌豊は、馬場信春、山県昌景、原昌胤、土屋昌次らと、地の利がないと合戦に猛反対し、撤退を主張しますが、勝頼は承知しませんでした。
こうして、設楽原で昌豊は、武田軍中央勝頼本陣の隣に小幡信貞、安中党を相備えとし、自らは、兵約1,500を率い布陣、開戦後左翼に移動し、徳川家臣・本多忠勝、石川数正隊と戦います。
昌豊は、奮戦していましたが、山県隊の使者から昌景が討ち死にしたことを知ります。
内藤は、武田軍が総崩れになることを予想し、小幡、安中衆に退却するよう指示し、自らは勝頼本陣へ向かいました。
昌豊は、馬場信春とともに、勝頼に退却するよう説得しますが、勝頼は突撃すると言って聞きません。
馬場に一喝され、勝頼は退却を決め、合図の法螺貝を吹きますが、時既に遅く織田の追撃隊が迫ってきたため、昌豊は死を覚悟します。
勝頼を馬場とともに退却させたあと、「大」の旗を持ち、殿として、横田兄弟と本陣に踏みとどまり、奮戦の末、討ち死にしました。


内藤昌豊 大永2年(1522年) – 天正3年5月21日(1575年6月29日)
武田四天王の一人。
武田信虎の重臣・工藤虎豊(下総守)の次男として生まれたという。
永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは本隊に所属し、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍したという。
永禄6年頃から永禄13年頃まで信濃国深志城を守備している。
永禄9年(1566年)までに信濃国深志城(松本城)の城代を務める。
武田氏の西上の侵攻に伴い、昌豊は永禄9年頃から上野国衆の取次を務め、永禄9年から翌永禄10年まで春日虎綱、真田幸綱らによる在番で箕輪城代を務める。さらに永禄13年から元亀元年(1570年)4月頃までに箕輪城代となり、長篠合戦で戦死する天正3年まで務めている。
元亀4年(1573年)4月に信玄が死去した後は、子の勝頼に仕え、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで戦死。『甲陽軍鑑』によれば、武田勢が敗退する中、昌秀は馬場信春とともに勝頼を戦場から逃すため踏みとどまり、今川氏真の使者として徳川家康の陣中見舞いに訪れ徳川軍の中にいた朝比奈泰勝により討ち取られたという。享年54。
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住所:愛知県新城市八束穂1041
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