「長篠の戦い」の関連史跡:馬場信春の墓

史跡

④ 馬場信春の墓

馬場信春 永正12年(1515年)/永正11年(1514年) ー 天正3年5月21日(1575年6月29日)

武田信虎信玄勝頼の三代に渡り仕え、武田四天王に数えられる

信虎時代

はじめは現在の山梨県北巨摩郡一帯に分拠していた武川衆の一員であった。
武田晴信(信玄)の初陣である海ノ口城攻めに参加し、敵将・平賀源心を討つという功績を挙げたといわれている。
天文10年(1541年)の信玄の信虎追放計画に参加していたといわれる。

信玄時代
諏訪・伊那攻めで武功を挙げる。
このため信玄から、天文15年(1546年)に信虎によって当主・馬場虎貞が殺害されたために名跡が絶えていた、甲斐武田氏譜代の名門である馬場氏を継ぐことを許された。このとき、同時に50騎持の侍大将となる。

永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは、上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任されたと言われている。
永禄11年(1568年)の駿河侵攻に参加。
永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは、先鋒として北条軍と戦い、武功を挙げた。
元亀 3年(1572年)の信玄による西上作戦にも参加し、信玄から一隊の指揮を任されて只来城(浜松市天竜区只来)を攻略した。三方ヶ原の戦いにも参加し、徳川氏軍を浜松城下まで追い詰めるという武功を挙げた。

勝頼時代
元亀4年(1573年)4月、信玄が死去すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐するが、山県と同じく、勝頼からは疎まれたという。

最期
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは山県ら重臣と共に味方の不利を説き、撤退を進言するが聞き入れられなかった。敵を自領に引き入れ、挟撃する策を進言したが、それも聞き入れられず、長篠城落城への注力を進言。しかし結局、勝頼の側近に阻まれて退けられるといわれる。
ただし、これは後世の作り話である可能性が高い。

5月21日の設楽原での織田・徳川連合軍との決戦では武田軍右翼の中核に兵700人で配され、馬場隊は丸山に陣を張った織田方主力の佐久間信盛隊6000人と対峙する。
馬場隊は丸山を奪取するが、数で劣る味方の攻勢が長続きすることはなかった。
次第に崩れだした武田軍は、有力武将を次々と失い、戦線は崩壊。信春が再度、撤退の進言をすると、勝頼は退却を決断する。

馬場隊は武田軍の殿を務めるべく、勝頼が退却を始めると、内藤昌秀と共に残った兵数百で迫りくる連合軍の大軍をよく阻んだ。
勝頼の姿が見えなくなり退却したのを見届けると、この時点でも信春はまだ無傷であったが、追撃する織田軍と戦い、織田家家臣・原田直政の配下、河井三十郎に、首を差し出した。また、討ち取られたという説もあります。

アクセス

住所:愛知県新城市長篠西野々51-1

クルマ🚙
 新東名高速道路新城ICから約3km

電車🚉
 JR長篠城駅・鳥居駅から徒歩15分

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