③ 鳥居強右衛門の墓
新昌寺
創建は天文8年(1539年)長篠医王寺四世月傳太隋大和尚により、創建当時は「喜船庵」と称されました。


👉「喜船庵」は萬治3年(1660年)新昌寺に改められ、寛政3年(1791年)には興国山新昌寺に改められています。
その後、鳥居強右衛門の墓は慶長8年(1608年)強右衛門の子信商の手によって作手鴨ケ谷甘泉寺に移転されました。

👉甘泉寺の墓については、織田信長が戦いのために自らの命を投げ出した強右衛門の功績を称えて葬ったと言われており、寺内には位牌も残っています。
◆「鳥居強右衛門磔の地」については下記もご参照ください。

「長篠の戦い」の関連史跡:鳥居強右衛門磔の地
天正3年5月、長篠城は武田勝頼に取り囲まれ窮地に陥ります。その時、鳥居強右衛門が徳川氏への救援要請に志願。承諾を得て城に戻る途中、武田の兵に捕まります。嘘をつくことを拒否して磔となった強右衛門のエピソードと磔の碑について触れています。
強右衛門の墓
新昌寺の墓はその後百六十年間廃墟となっていましたが、宝暦13年(1763年)に有志の手によって再建されました。
碑面には「天正三乙亥年 智海常通居士 五月十六日 俗名鳥居強右衛門勝商 行年 三十六歳」とあり、
碑面左には「わが君の命に替る玉の緒を などいとひけん 武士の道」とあり、 これは辞世の句とされる。
明治36年(1903年)境内には鳥居閣が、大正9年(1920年)には墓が拡張され、現在の形に整えられました。
現在、毎年4月に“鳥居祭”が行われています。




◆「長篠の戦い」については、こちらもご覧ください。

徳川家康8 長篠の戦いの戦略と遠江平定への道のり
天正三年(1575)五月二十一日、奥三河の要衝・長篠城を巡る戦いが織田・徳川連合軍と武田軍の間で起こります。織田・徳川軍を勝利に導いた戦略とは?戦後、信長は天下人への道を進み、家康は遠江へ領土拡大、勝頼は衰退していく過程を解説しています。
アクセス
住所:愛知県新城市有海稲場2
クルマ🚙
新東名高速道路 新城ICから約3.5km
電車🚉
JR飯田線 JR鳥居駅から約200m
付録:戦国の陣没将士の墓園
鳥居強右衛門の墓に隣接して、「戦国の陣没将士の墓園」がありました。










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