「関ケ原の戦い」の関連史跡:島津義弘陣跡

史跡

③ 島津義弘陣跡

島津義弘が陣を敷いたのは、笹尾山の石田三成陣跡より、南に約800m下った辺りとされています。現在は神明神社の森が広がっており、この神社の裏側には「小池島津義弘陣所跡碑」があります。
ここは合戦時、西軍布陣地のほぼ中央部に位置しました。

島津隊は千人程度と他の隊と比べ小数だった為、軽視されたと云われ、当初は東軍として伏見城に入ろうとしたが城主・鳥居元忠に断られ、西軍に付くも墨俣から撤退の際には置き去りにされ、作戦会議でも義弘が進言した奇襲作戦が取り入れられず、関ヶ原の戦いの際でも石田方の使者が馬から下りず見下したなどの逸話が残っています。
真意は不詳ですが、戦意的には非常に低かったとされ、一般的には殆んど戦いには参加しなかったと言われています。

しかし、島津義弘は敵に背は向けずに敵中を突破するの「捨て奸 」(すてがまり)とう手段をもっていました。
これは島津義弘(本隊)を逃すために、殿(しんがり)は死ぬまで戦って足止めし、小部隊が全滅すると次の殿がまた全滅するまで戦い抜くということを繰り返す戦法。
敵陣の中央突破を図った後にも、退路には狙撃兵を配置し、敵将を狙撃、槍で突くなどの抵抗を繰り返しました。
島津隊を最後まで追走した東軍の松平忠吉井伊直政は重傷を負い、本多忠勝は落馬しています。
こうして島津隊は、80数名が生きて薩摩に戻りました。

ギャラリー

アクセス

住所:
 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原1961-4

電車🚉
 JR東海道本線 関ケ原駅より約1.3Km
 (関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)

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