② 島左近陣跡
島左近は「三成に過ぎたるもの」と言われ、関ケ原の合戦の前日、慶長5年(1600年)9月14日に兵500を率いて挑んだ岐阜県大垣市の「杭瀬川の戦い」で勝利し、西軍の士気を高めました。
合戦当日は笹尾山の麓、石田三成本陣のすぐ前方に布陣しました。そして、その陣跡は島左近が最前線で東軍と激闘を繰り広げた場所として知られています。
9月15日の合戦当日、島左近は朱色の兜、溜塗りの鎧。浅黄色の木綿羽織という出で立ちで、黒塗りの長柄槍を手にしていました。
三成本陣の前面を守る左近の陣に攻め寄せてきたのは、東軍の猛将・黒田長政と細川忠興。
左近は竹矢来(やけらい)を拠点として何度も反撃に出て、東軍を押し返す戦いぶりを見せたといわれます。
また、騎馬で先頭に立ち、自らも槍で5人を討ち取ったと伝えられています。
左近の陣は三成本陣を守る最後の砦であり、左近が戦い続ける限り、東軍は三成に迫ることができませんでした。
しかし、激戦の中で島左近は、黒田長政の家臣・菅六之助の銃撃により負傷したとされています。
島左近の最期については「討死した」とも「戦場を離脱した」ともいわれますが、最後の瞬間まで三成のために戦い続け、島左近が退いた後は石田隊も壊滅状態となりました。
ギャラリー




アクセス
住所:
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原1361
電車🚉
JR東海道本線 関ケ原駅より約1.5Km
(関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)
関連スポット
◆「石田三成陣跡」については、こちらもご参照ください

「関ケ原の戦い」の関連史跡:石田三成陣跡
西軍で開戦当初に戦っていたのは石田、宇喜多、小西、大谷らごく一部でした。正午頃までは一進一退の攻防でしたが、小早川秀秋が西軍を裏切ると、西軍の多勢の陣が崩れ三成も敗走します。戦場全体を見渡せる笹尾山に陣取った石田三成陣跡を紹介しています。
「関ケ原の戦い」関連史跡めぐりコース
◆「関ケ原の戦い」に関連する史跡巡りコースをご紹介しています。
こちらも合わせて、ご覧ください。

「関ケ原の戦い」の関連史跡めぐり
徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)が戦い、戦いに勝利した家康が天下を握ったことから「天下分け目の戦い」ともいわれ、歴史上有名な戦いの1つにあげられる関ケ原の戦い。その戦いに参加した武将の陣跡、開戦地などの史跡を巡るコースを紹介しています。
関ケ原の戦いについて
◆「関ケ原の」戦いについて、こちらもご覧ください

徳川家康25 関ヶ原に向けて・・・上杉討伐と石田三成の挙兵
慶長五年(1600)徳川家康は五大老の一人であった上杉景勝に謀叛の嫌疑を掛け討伐に乗り出します。さらにその隙を狙って石田三成も挙兵。天下分け目の関ケ原の戦いへと向かっていく上杉討伐の経緯と石田三成の挙兵について解説しています。

徳川家康26 小山評定から関ヶ原へ
家康が会津の上杉征伐へ向かう中、石田三成が挙兵します。小山評定で、諸将は三成との決戦を決めます。福島正則や池田輝政は岐阜城を落とし、家康も合流し、東軍は関ヶ原に向かいます。小山評定から関ヶ原に至る過程を解説しています。

徳川家康27 関ヶ原後の諸大名の処遇と徳川体制への布石
関ヶ原の合戦に大勝した家康は戦後処理を進めます。西軍の主要メンバーは戦死した大谷吉継を除き、市中引き回しの上処刑。東軍の主力であった豊臣大名は大幅な加増となりますが、地方へと転封となります。家康が自らの体制を築いていく過程を解説しています。



コメント