「関ケ原の戦い」の関連史跡:宇喜多秀家陣跡

史跡

⑤ 宇喜多秀家陣跡

宇喜多秀家の陣跡は南天満山麓の天満神社付近にありました。
関ケ原合戦時は、この付近に約1万7千という西軍の主力部隊を布陣し、副総帥として参戦しました。

通説では、関原の戦いは午前8時頃井伊直政が宇喜多軍に抜け駆けをし、それを知った福島正則が急ぎ鉄砲隊800をもって一斉に宇喜多軍に発砲し、決戦が開始したといいいます。
宇喜多軍は猛将・明石全登の奮戦で福島軍を押し込み、これに対し正則も自ら前線に駆って出るなど、戦況は一進一退しました。
しかし、小早川秀秋の裏切りで宇喜多軍は崩れます。
秀家は小早川隊に突撃しようとしましたが、明石全登の諫めによって戦場を逃れたといいます。

石田三成小西行長安国寺恵瓊が京の六条河原で処刑されるなか、秀家は、敗走し揖斐でかくまわれます。
そして、翌年6月には上方から海路をとり薩摩半島の山川湊に到着し、島津氏の庇護の下でかくまわれました。
慶長7年(1602年)12月に徳川・島津間の和議が成立して、島津忠恒が上洛し家康と対面した際に、秀家の潜伏が明かされ、身柄引渡しが進められることとなります。

秀家は西軍の将としてはきわめて軽い処分で済み、身柄は駿府城の二の丸に置かれたといわれます。
その後、八丈島配流が決まり、息子2人と従者10名ともに八丈島に移されました。
秀家は島で50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたと伝えられます。
元和2年(1616年)には刑が解かれましたが、八丈島に留まり、明暦元年(1655年)11月20日に死去。享年84。関ヶ原に参戦した大名としては最も長く生きた武将である。

ギャラリー

アクセス

住所:
 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原4146

電車🚉
 JR東海道本線 関ケ原駅より約1.8Km
 (関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)

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