- さ
- 斎藤龍興(さいとう たつおき)1547-1573
- 斎藤利三(さいとう としみつ)?-1582
- 酒井忠次(さかい ただつぐ)1527-1596
- 酒井忠尚(さかい ただひさ)?-?
- 榊原康政(さかきばら やすまさ)1548-1606
- 佐久間信盛(さくま のぶもり)?-1581
- 佐久間盛重(さくま もりしげ)?-1560
- 佐久間盛政(さくま もりまさ)1554-1583
- 佐々木兄弟(ささききょうだい)・佐々木盛綱(ささき もりつな)1157-?
- 佐竹氏(さたけし)
- 佐竹隆義(さたけ たかよし)1118-1183
- 佐竹義政(さたけ よしまさ)?-1180
- 佐々成政(さっさ なりまさ)?-1588
- 佐奈田与一(さなた よいち)1155-1180
- 真田氏(さなだうじ)
- 真田信綱(さなだ のぶつな)1537-1475
- 真田昌輝(さなだ まさてる)?-1575
- 真田昌幸(さなだ まさゆき)1547-1611
- 真田幸隆(さなだ ゆきたか)1513-1574
- し
- 静御前(しずかごぜん)?-?
- 志田(源)義弘(しだ(みなもと) よしひろ)?-1184
- 斯波氏(しばうじ)
- 柴田勝家(しばた かついえ)1522-1583
- 柴田勝豊(しばた かつとよ)?-1583
- 清水宗治(しみず むねはる)1537-1582
- 証意(しょうい)
- 慈雲院(じうんいん)?-1620
- 慈円(じえん)1155-1225
- 常高院(じょうこういん)?-1633
- 上西門院(じょうさいもんいん)1126―1189
- 城助職(城長茂(じょう ながもち)?-1201
- 島津家久(しまづ いえひさ)1547-1587
- 島津氏(しまづうじ)
- 島津義久(しまず よしひさ)1533-1611
- 島津義弘(しまず よしひろ)1535-1619
- す
- 崇源院(すうげんいん)1573-1626
- 菅沼氏(すがぬまうじ)
- 菅沼定顕(すがぬま さだあき)
- 菅沼定忠(すがぬま さだただ)?-1582
- 菅沼定盈(すがぬま さだみつ)1542-1604
- 菅沼忠久(すがぬま ただひさ)?-1582
- 菅沼正貞(すがぬま まささだ)?-1582
- 菅沼元成(すがぬま もとなり)
- 杉原家次(すぎはらいえつぐ)1530-1584
- 杉原定利(すぎはら さだとし)?-1593
- 杉若無心(すぎわか むしん)?-?
- 鈴木重時(すずき しげとき)1528-1569
- 鈴木重秀(すずき しげひで)?-?
- 崇徳天皇(すとくてんのう)1119-1164
- 諏訪頼忠(すわ よりただ)1536-1605
- 瑞龍院妙慧日秀尼(ずいりゅういん みょうえ にっしゅう に)
- せ
- 関口氏純(せきぐち うじずみ)?-?
- 仙石秀久(せんごく ひでひさ)1552-1614
- 千利休(せんのりきゅう)1522-1591
- そ
さ
斎藤龍興(さいとう たつおき)1547-1573
戦国時代の美濃国の戦国大名の。道三流斎藤家3代(美濃一色家2代)。父・斎藤義龍の急死により若年にしてその跡を継ぐが、尾張の織田信長に美濃を奪い取られた。その後も越前朝倉氏と協力して美濃復帰を目指したが、実現することなく討ち死にした。
斎藤利三(さいとう としみつ)?-1582
初め稲葉良通(一鉄)に仕え,のち伯父に当たる明智光秀に仕えた。このことが本能寺の変の一原因になったという説もある。光秀から事前に本能寺襲撃を明かされた老臣の一人で、山崎の戦に奮戦したが、敗戦後近江大津で捕縛され、京都粟田口で磔刑された。3男1女があり、1女は稲葉正成に嫁し、のち徳川家光の乳母(春日局)となり、この縁で長男利光と次男三存は幕臣となった。
酒井忠次(さかい ただつぐ)1527-1596
本多、井伊、榊原とともに徳川四天王の一人。徳川氏と同祖だという名門左衛門尉酒井氏の嫡流に生まれる。
家康より15歳年長の忠次は早くから家康に仕え、家康の駿府人質時代にも供奉して奏者役などを勤めた。家康が三河(愛知県東部)を支配する過程で、西三河は石川家成、東三河は忠次が旗頭に任命され、よくその責を果たした。家康の領域が拡大するとともにその役割も大きくなり、1582年(天正10年)武田勝頼滅亡後には信濃経略の責任者となるなど活躍している。
86年従四位下、左衛門督(さえもんのかみ)に叙任され、88年62歳で隠居し、一智と号した。妻は家康の父・松平広忠(ひろただ)の異母妹である。
酒井忠尚(さかい ただひさ)?-?
戦国時代の武士。松平氏につかえた酒井忠次の一族。天文9年(1540)三河上野城主となり、松平(徳川)広忠・家康につかえる。永禄6年三河一向一揆にくわわり家康にそむく。のち家康軍に攻められ駿河にのがれた。
榊原康政(さかきばら やすまさ)1548-1606
徳川家康直属の有力部将で譜代大名。幼名小平太、官名は式部大輔(しきぶたいふ)。
三河一向一揆で家康に敵対した家老・酒井忠尚の小姓であったといわれる。1560年(永禄3)岡崎に帰城した家康に属して近親となり信任を得、三河一向一揆で初陣を飾り、家康の一字を与えられ康政と称した。永禄(1558~70)末年、本多忠勝と同じ旗本一手の軍団を指揮する部将に取り立てられた。五か国領有時代を通じ旗本部将でつねに第一戦で軍功があり、同様の地位にあった本多忠勝、井伊直政とともに三傑と称せられた。関東入部後は上野国・館林で10万石を与えられた。関ケ原の戦い後、忠勝、直政とともに参陣した大名の論功行賞にあたり、政治の中枢にあった。
佐久間信盛(さくま のぶもり)?-1581
織田信秀につかえ、織田信長の重臣となる。長篠の戦い、比叡山の焼打ち、三方ヶ原の戦い、朝倉氏の征討等の主要な戦いに参戦し功があった。
天正4年からの石山本願寺攻めで総大将となるが、8年その無策をとがめられ、高野山に追放された。
佐久間盛重(さくま もりしげ)?-1560
尾張の戦国大名・織田信秀の代からの家臣で、信長の弟・信行(信勝)付きの家老となった。
弘治2年(1556年)、信長と信行の兄弟対立では、同族の佐久間信盛らと同じく信長方に味方した。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、その前哨戦において5月に丸根砦の守備に置かれ、近隣の鷲津砦と連携して今川方の尾張侵攻の拠点である大高城を牽制する任を担ったが、大高城救援のため出陣した今川方の部将の松平元康(後の徳川家康)勢の攻撃により18日に丸根砦は陥落し、盛重は討死した。
佐久間盛政(さくま もりまさ)1554-1583
玄蕃允(げんばのじょう)と称した。尾張の人。織田信長に仕えて越前、加賀の討伐に功を立て、のち叔父の柴田勝家に従い賤ケ岳の戦いで敗れて捕えられ、京都で刑死。
佐々木兄弟(ささききょうだい)・佐々木盛綱(ささき もりつな)1157-?
祖の佐々木秀義は保元、平治の乱で源義朝に属して戦います。平治の乱での敗北により藤原秀衡を頼って落ち延びる中、相模国の渋谷重国に呼ばれ庇護を受けます。
秀義の4人の子、定綱、経高、盛綱、高綱は伊豆に配流されていた頼朝に家人として仕えました。頼朝挙兵時に4兄弟はそれに応じ活躍し、本領であった近江を始め17ヵ国の守護に補されます。
佐竹氏(さたけし)
八幡太郎義家の弟・源義光が常陸介となり、その孫昌義が常陸久慈郡佐竹郷に土着し、佐竹を称したのに始まる。
昌義の次子隆義は平家の恩顧を受けた関係から源頼朝に対抗した。
鎌倉幕府滅亡後は足利氏に属して常陸守護職に補任され勢力を回復。戦国時代には常陸国・下野国から陸奥国まで勢力をのばし、北関東最大の大名として後北条氏や伊達氏と争った。
豊臣秀吉からは水戸54万石を安堵されたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで慶長7年(1602)に秋田20万石に減封された。戊辰戦争では官軍に属し、維新後は侯爵に列せられた。
佐竹隆義(さたけ たかよし)1118-1183
佐竹昌義と藤原秀衡の娘の子。平氏に属し、平清盛の取次によって縦五位常陸介になり、頼朝挙兵以降も京に留まっていた。
富士川の戦いの跡、頼朝は佐竹氏の脅威のため平氏追討を断念。頼朝は金砂城(茨城県)の一族を攻め、佐竹氏旧領を伊賀光季の一族や宇佐美氏などに分与した。平氏が都落ちした後も、頼朝は陸奥の藤原秀衡、常陸の隆義の存在を理由に上洛しなかった。
佐竹義政(さたけ よしまさ)?-1180
弟の隆義とともに保元・平治の乱は平清盛に属して戦い、常陸七郡を領したという。
富士川の戦い後、佐竹氏の脅威を理由に平氏追討を断念した頼朝は、佐竹氏征伐のために常陸国府(現石岡市総社)進軍。義政は縁者であった上総広常を通じて降伏を申し出て広常と面会したが、討たれてしまった。なお、弟昌義の子・秀義は金砂城に籠った。
佐々成政(さっさ なりまさ)?-1588
織田信長に仕え、黒母衣衆となる。のち柴田勝家の与力として北陸に活躍。
朝倉氏討滅、長篠の戦い、石間本願寺の一向一揆攻撃に功績をあげ、1581年(天正9)2月越中国一国を与えられ、富山に在城。信長死後は柴田勝家に味方する。
賤ヶ岳の戦いで勝家が滅亡すると、織田信雄、徳川家康と結び、84年小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と対抗し翌年秀吉に降伏。
87年九州の役に従軍し、羽柴の姓を許され陸奥守、侍従に任ぜられ、同年5月肥後(熊本県)一国を領す。博多の普請を命ぜられ、そのため太閤検地に着手。しかしすぐ肥後国人隈部(くまべ)氏らの検地反対一揆にあい、失政の咎を受け、翌天正16年閏5月14日尼崎で切腹。
佐奈田与一(さなた よいち)1155-1180
岡崎義美の嫡男。
1180年8月17日、父・義美ととも源頼朝の挙兵に応じ山木兼隆館襲撃に加わる。
石橋山の戦いでは先陣を務める。敵の俣野景久(大庭景親の弟)と組みあい、刀を抜こうとするが先に斬った者の血が鞘にこびりつき、刀が抜けずに打ち死にした。
1190年正月、頼朝は三嶋、箱根、伊豆山参詣の帰りに、石橋山の与一の墓に立ち寄り涙を流したといいます。

真田氏(さなだうじ)
戦国以来信濃国(長野県)に根拠を有した武士の一族。発祥地は信濃国小県(ちいさがた)郡真田(上田市)で、海野(うんの)氏より出たとされる。
天文年間(1532~55)、幸隆が甲斐武田氏に属し、信玄の信濃侵攻に参加したことにより勢力を伸ばし、武田氏の末期から上野(こうずけ)北部に侵攻し、その滅亡とともに、小県郡および上野国吾妻(あがつま)地方を領有する小戦国大名として自立した。
さらに、長篠の戦いで戦死した兄信綱の後を受け、家督を継いだ幸隆の三男昌幸は、1583年(天正11)本拠地を上田に移し、小県郡支配をより明確なものとした。
1600年(慶長5)の関ケ原の戦いにおいて、昌幸と二男信繁(幸村)は西軍、嫡男信幸(信之)は東軍に分かれて戦い、西軍敗北により昌幸、信繁は高野山に幽閉された。こののち昌幸は高野山で没し、信繁は1614年高野山を脱出し、大坂冬の陣・夏の陣に大坂方として参戦し、戦死した。
一方信幸は、関ヶ原の戦いののち昌幸の旧領を安堵され、上田城を居城とした。1622年(元和8)上田から松代(長野市)へ転封となり10万石を領した。松代移封当初は財政も豊かであったが、しだいに窮乏した。6代幸弘が恩田木工(おんだもく)を登用して、倹約を中心とした財政の立て直しを図ったことは『日暮硯(ひぐらしすずり)』で有名である。
また真田家は、7代幸専(ゆきたか)を井伊家から、8代幸貫(ゆきつら)を越前松平家から、10代幸民(ゆきたみ)を伊達家から迎えて家を存続させ、幸民のとき明治維新を迎え華族となった。









真田信綱(さなだ のぶつな)1537-1475
真田幸隆の長男。信濃上田城主。武田信玄につかえ、川中島の戦い。小田原攻めなどにくわわった。天正2年家督をつぐ。3年5月21日長篠の戦いで武田勝頼が織田・徳川連合軍に大敗した際に戦死。39歳。

◀真田信綱の墓(写真中央)/信綱寺
(長野県上田市)
信綱の首級は、家臣白川勘解由兄弟の手により陣羽織に包まれ鎧とともに信綱寺の墓前の桜の下に葬られました。
その後享保2年(1717)の寺の移築にともない、墓所が裏山の現在の場所に移され、夫人と共に厚く弔われている。(左が信綱公夫人、右が弟・昌輝公の墓)
真田昌輝(さなだ まさてる)?-1575
真田幸隆の次男。武田信玄・勝頼につかえる。
兄・真田信綱ともども武勇にすぐれ、信濃上田城をまもり、相模小田原城攻囲戦などで軍功をたてた。天正3年5月21日長篠の戦いで織田・徳川軍に敗れ戦死。
▶真田昌輝の墓(写真右)/信綱寺(長野県上田市)
(中央は信綱公の墓、左が信綱公夫人の墓)

真田昌幸(さなだ まさゆき)1547-1611
安土桃山時代の武将。武田の将・幸隆(ゆきたか)の三男。11歳のとき人質として甲府に赴き、のち武田信玄の近侍となり、武藤喜兵衛と称した。
天正3年(1575年)、長兄、次兄が長篠の戦いで戦死したので、家督を継いだ。80年盛んに上野(こうずけ)(群馬県)に進出、ついに沼田領一円を手に入れた。
82年の武田氏滅亡後は織田信長に仕えて本領を安堵され、本能寺の変後は徳川氏に属した。しかし、家康が沼田城を北条氏直(うじなお)に与えようとしたため、これに反し、上杉景勝と結んで85年徳川軍を信濃(しなの)(長野県)上田城に迎撃して破った。ついで豊臣秀吉に臣従したが、のち秀吉の命で家康に属し、長男信之(のぶゆき)を家康に、次男信繁(のぶしげ)(幸村(ゆきむら))を秀吉に出仕させた。
関ケ原の戦いでは西軍に属し、上田城を死守、徳川秀忠はそのため合戦に遅れてしまった。戦後高野山に流され、配所で没した。高野山下九度山で再起の機をうかがって武を練っていたというのは講談で、晩年には赦免の沙汰を待ちこがれて、寂しく暮らしていた。
真田幸隆(さなだ ゆきたか)1513-1574
永正(えいしょう)10年生まれ。真田昌幸の父。信濃海野(うんの)から真田郷に移住し、海野姓から真田姓にあらためる。天文13年武田信玄につかえ、村上義清や越後の上杉謙信とたたかう。のち上野に転戦、武田氏の勢力をひろげた。天正2年5月19日死去。62歳。
し
静御前(しずかごぜん)?-?
源義経の側室。母は磯禅師。もと白拍子。義経の京都退去に従ったが吉野山中で別れ、捕らえられた。鎌倉鶴岡八幡宮で、義経を恋う「しずやしず」の歌を舞って人々を感動させた。
静
。
鶴岡八幡宮▶

志田(源)義弘(しだ(みなもと) よしひろ)?-1184
源為義の3男。本拠は常陸(茨城県)信太郷。源頼朝と対立し、1183年足利多田綱人とともに挙兵したが、小山朝の奇襲に敗れた。
以後、木曽(源)義仲を頼ります。義仲の敗死により伊勢(三重県)に逃れたが討ち死に。
斯波氏(しばうじ)
鎌倉・室町時代の豪族で,室町幕府の三管領家の一つ。足利氏の支流。
祖足利家氏が陸奥斯波郡に下って斯波氏を称す。その曽孫高経は足利尊氏に従い越前・若狭の守護となり,その子義将 (よしまさ) が管領となって以後三管領の一つとなって権勢をふるった。
のち義廉 (よしかど) ・義敏の家督争いは応仁の乱の一因となった。乱後は分国の越前は朝倉氏,遠江 (とおとうみ) は今川氏,尾張は織田氏らの守護代に奪われ,1561年織田信長に追われて滅んだ。
柴田勝家(しばた かついえ)1522-1583
初め信長の弟・信行に仕えた。信行の反逆に味方したが降伏し、再度の陰謀を信長に密告した。
天正3年(1575年)9月、信長は越前を平定すると、勝家にこれを与え、北ノ庄(福井市)に置き、北陸の総管とした。
勝家は天正8年(1580年)に加賀を平定し、越中に進出するが、佐々成政、前田利家らを組下とし、天正10年(1582年)には上杉景勝と対戦。本能寺の変では景勝の追撃を警戒し、上洛できなかった。
信長の後継者をめぐり、信長の三子・神戸信孝をたてようとし、羽柴秀吉が推す三法師に対抗した。また秀吉、丹羽長秀、池田輝政の3人と交代して庶政をみることになった。
これらの動きに対し、同じ不満をもった信孝と結び、天正11年(1583年)に滝川一益らも味方にして挙兵した。秀吉は信孝を岐阜城に攻めて降伏させ、一益を伊勢長島城に攻めた。やがて勝家が出撃したため、再征中の大垣城から引き返し、近江賤ヶ岳で決戦した。
ここで敗戦した勝家は急追され、4月24日妻お市の方とともに北庄城で自殺。
柴田勝豊(しばた かつとよ)?-1583
柴田勝家の姉の子、養子。越前丸岡城主。天正10年(1582年)本能寺の変後の清須会議で、近江長浜城主となる。
勝家と不和となり、それを知った羽柴(豊臣)秀吉」に攻められ、降伏。
天正11年(1583年)4月16日死去。


清水宗治(しみず むねはる)1537-1582
初め備中国高松城主・石川久孝の家臣であったが、主家の内紛に乗じて自ら城主となり、小早川隆景に属し毛利氏の備中平定を助けた。
天正10年(1582年)織田氏の将羽柴(豊臣)秀吉から、信長方に属して中国征討の先鋒たらば備中・備後を与えるとの信長の書を受けたが、宗治はこれを退けた。
よって秀吉の来攻にあい、高松城水攻めのなかでよく抵抗し、毛利勢の支援を受けた。たまたま織田信長の死の急報に接した秀吉は、これを秘してただちに毛利氏と講和したが、6月4日、その条件に従って宗治は兄の月清入道とともに自決し、城中の軍兵をことごとく救った。
証意(しょうい)
永禄4年(1564年)に父証恵の死に伴って28歳の時に願証寺4世の住持となる。永禄6年(1566年)、上洛し本願寺11世法主顕如より改めて正式に願証寺の院家相続を認められた。
元亀元年(1570年)に顕如が織田信長と対立して石山合戦が始まった際には主戦派として下間頼成と連署して近隣国人に蜂起を煽る檄文を飛ばし、同年11月には長島に集った兵を率いて下間頼旦が古木江城を守る織田信興(信長の弟)を攻め立て自害に追い込み、長島一向一揆の戦端を開いた。
信長の第一次長島侵攻を防いだ4ヶ月後の元亀2年(1571年)6月6日、証意は急逝する。享年35。証意の急死を受けて跡を11歳の嫡男顕忍が引き継ぐ事となった
慈雲院(じうんいん)?-1620
慈雲院は豊臣秀長(羽柴秀長)の正妻と考えられる人物だが、出自ははっきりしない。実名についても不明である。
・天正13年(1585年)9月、秀長が大和国を与えられて郡山城(奈良県大和郡山市)に入ったのに伴い、「濃洲女中」が郡山に来た(『多聞院日記』)この「女中」が慈雲院であると考えられる。
・天正14年(1586年)5月、大和に来た秀長の母・大政所と共に、慈雲院(「美濃殿御上さま」)は春日社へと参詣した(『祐国記』)。天正18年(1590年)に至るまで、慈雲院は大政所と共に度々春日大社に詣でている。
・天正16年(1588年)9月、慈雲院は大和に来た徳川家康から綿500把を贈られており(『多聞院日記』)、また、上洛して羽柴秀吉に面会した毛利輝元が郡山城にやってきた際に紅糸100斤と銀子20枚を贈られている(『天正記』)。
・天正17年(1589年)9月に、秀吉が諸大名の妻に3年間の在京を命じると、慈雲院も上洛した。同年11月、秀長の妹の南明院が病になったのを受けて、春日大社に病平癒の祈祷を依頼した(『御神事之記』)。
・天正18年(1590年)4月以降は、重篤化した秀長の病平癒のための祈祷を度々指示している。また、天正18年6月、秀長の指示で鋳られた熊野山如意輪堂(那智山青岸渡寺)の鰐に書付が行われたが、その志趣書には「豊臣朝臣正二位大納言内公」として慈雲院の名がある(『多聞院日記』)。
・天正19年(1591年)1月に秀長が死去し、その跡は養子の羽柴秀保が継いだ。秀長の死後、慈雲院は「大和大方様」と呼ばれ、法名を得てからは「しうんゐん様」(『駒井日記』)とも呼ばれた。
・天正19年2月、千利休に連座して古渓宗陳大徳寺の僧が磔に処されそうになった際、慈雲院(「大納言殿後室」)は大政所と共に秀吉に働きかけ、刑を免れさせた(『北野社家日記』)。
・文禄3年(1594年)3月、秀保が秀長の娘(生母は秀長の別妻の摂取院)と婚儀を挙げた。その際、慈雲院は郡山城に来た羽柴秀次・羽柴秀俊(小早川秀秋)と贈答を行っている。
・文禄4年(1595年)4月に秀保は死去し、秀長家は断絶する。郡山領は増田長盛に与えられることになり、慈雲院やその家族は郡山城を去ったとみられるが、その後の居所は不明である。
・慶長10年(1605年)頃、慈雲院(「大納言殿後室」)は大和国の4村(中之庄村・窪之庄村・山村・高樋、現在の奈良市および天理市の内)に合計2,000石を知行しており(『大和国著聞記』)、徳川牧夫から知行を与えられていた。これらの村は、元和年間(1615-24年)には天領等になっている。
・元和6年(1620年)3月28日(善正寺過去帳)または同年2月28日(大光院過去帳)に慈雲院は死去した。『中臣祐範記』元和7年(1621年)2月5日条にも、その頃までに慈雲院(「大納言秀長室」)が死去していたことが記されている。
慈円(じえん)1155-1225
九条兼実の弟。兼実の尽力により順調な昇進を遂げ、1192年権僧正、天台座主、護持僧となった。
1196年源通親のため一旦座主の地位を追われたが、1201年再び座主となって以来、4度座主となった。
慈円が記した「愚管抄」は中世日本の最も重要な歴史書と評価されている。
常高院(じょうこういん)?-1633
江戸初期の大名夫人。名は初(または発とも)。
近江小谷城主・浅井長政と織田信長の妹お市の方(小谷の方)の間に生れた三姉妹の一人。姉は淀殿、妹はお江の方(徳川秀忠室・崇源院(すうげんいん))。
初は近江大津城主(のち若狭小浜城主)京極高次(きょうごくたかつぐ)に嫁した。1598年(慶長3)8月豊臣秀吉から近江蒲生郡のうち2045石を与えられた。1609年高次の死後、常高院と号した。
1614年の大坂冬の陣で、高次の嫡子忠高は徳川軍にあったが、常高院は豊臣方の代表として徳川方の阿茶局(あちゃのつぼね)と交渉を進め、和睦を成立させた。1633年(寛永10)8月に没し若狭常高寺(福井県小浜市)に葬られた。
上西門院(じょうさいもんいん)1126―1189
鳥羽(とば)天皇の第二皇女統子(とうし)内親王の院号。
城助職(城長茂(じょう ながもち)?-1201
1181年6月に1万の軍勢を率いて信濃国に進軍し、横田河原(長野市)で木曽(源)義仲と戦いますが敗北。同年8月越後守に任命されますが、越後に侵攻した鎌倉方の軍勢に捕らえられ囚人として鎌倉に送られます。
頼朝から奥州征伐に参陣することを許され、その後御家人になったといわれます。
頼朝没後の1201年1月、鎌倉幕府打倒を企て京で挙兵するが失敗し2月に討たれる。
島津家久(しまづ いえひさ)1547-1587
島津貴久の四男として生まれる。若年の頃より祖父・島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評価されていた。
豊臣秀吉の九州征伐では、島津義久・義弘が降伏する前に4兄弟の中では最も早く豊臣秀長軍と単独講和した。秀長の支援もあって兄達とは別に独立大名として認められたとする説がある(没後に後継者となった豊久が島津宗家とは別に知行宛行状などを与えられているため)。
天正15年(1587年)6月5日、佐土原城で急死する。
島津氏(しまづうじ)
南九州の豪族。初代忠久は平安時代末ごろの惟宗広言(これむねひろとき)の養子と伝えられるが不詳。鎌倉時代薩摩国島津荘の下司職(げししき)・地頭職を保持,のち薩摩・大隅・日向の守護を世襲した。南北朝〜室町時代は一族の内紛分裂が激しく,戦国時代に貴久が出て薩摩・大隅・日向の統一を進め,子義久が九州全土をほぼ平定した。しかし1587年豊臣秀吉に敗れ,版図は薩隅日3ヵ国に縮小,江戸時代は外様大名屈指の雄藩として77万石を領した
島津義久(しまず よしひさ)1533-1611
天文2年2月9日生まれ。父は島津隆久(たかひさ)。初め忠義(ただよし)、のち将軍足利義輝より義の字を得て義辰(よしたつ)、さらに義久と改める。父貴久と薩摩、大隅の領国化を進め、永禄9年(1566年)家督を相続した。元亀3年(1572年)日向木崎原(きざきばる)で伊東氏を大破し、天正5年(1577年)伊東氏を追い出し薩隅日3か国の本貫地を戦国所領とした。
続いて九州を領国にするため1578年高城(たかじょう)合戦で大友氏を討ち、1581年水俣城で相良(さがら)氏を破り、1584年島原合戦で竜造寺氏を倒した。1586年岩屋城で高橋氏を従わせ、九州をほぼ制圧したが、翌年豊臣豊臣秀吉に降り、剃髪し、薩摩一国を安堵された。1599年、家久に家督を譲ったが引き続き家久を補佐した。
戦国大名、豊臣政権下の大名の当主として諸領主を統治し、近世大名化への土台をつくった。
慶長16年1月21日没。79歳。墓は鹿児島市の福昌寺(ふくしょうじ)墓地にある。
島津義弘(しまず よしひろ)1535-1619
天文4年7月23日生まれ。父は島津隆久(たかひさ)。義久の弟。
天文23年(1554年)蒲生氏との合戦に初陣し軍功、大隅岩剣(いわつるぎ)城の城番となり、続いて日向飫肥千(おび)城、飯野(いいの)城と前線の城番をした。
三山(さんのやま)城攻め、馬越(まごし)城攻め、本地原(ほんちばる)合戦、元亀3年(1572年)の木崎原(きざきばる)合戦などで活躍し、九州征覇の合戦でも高(たか)城で大友軍を壊滅させ(耳川の戦い)、水俣城、岡城、堀切城攻めで連戦連勝したが、天正15(1587年)豊臣秀吉に敗れ、降伏し大隅国を安堵された。
文禄・慶長の役で泗川(しせん)合戦の軍功があり、関ケ原の戦いでは西軍にくみし敗れたが、敵陣縦断突破で知られている。
1587年に兄義久の後を受け家督を継いだとされているが、史料では家督を継いでいない。敵味方戦没者の六地蔵塔の建設、朝鮮からの陶工の招来、千利休からの茶道伝授でも有名。生涯52回の軍功という猛将。元和5年7月21日没。85歳。墓は鹿児島市の福昌寺(ふくしょうじ)墓地にある。
す
崇源院(すうげんいん)1573-1626
徳川秀忠の室。家光の生母。お江与(えよ)の方、お江(ごう)、小督(おごう)などとよばれる。諱(いみな)は達子(たつこ)。
小谷城主・浅井長政の三女で、母は織田信長の妹小谷(お市)の方。1573年(天正1)、信長によって包囲された小谷城落城の際、母、二人の姉、お茶々(豊臣秀吉側室・淀殿)、初(京極高次室・常高院(じょうこういん))とともに脱出、信長に養われる。
母の再婚によって柴田勝家の越前北庄城に移るが、1583年、秀吉と対立し敗れた勝家は自害、母もそれに続く。姉とともに秀吉に養われ、尾張大野城主・佐治一成と結婚し、秀吉の意向によって離縁。秀吉の養女となって羽柴秀勝と結婚するが、秀勝は朝鮮に出陣し没する。
1595年(文禄4年)、徳川秀忠と結婚。家光、忠長(ただなが)、千姫、和子(後水尾天皇中宮・東福門院)ら2男5女を生む。江戸城で没後、従一位を贈られる。
菅沼氏(すがぬまうじ)
菅沼氏の出自については、清和源氏の流れを汲む美濃の土岐氏支流を称する説などが伝わるが、確たる史料に乏しく、その起源は必ずしも明確ではない 。確かなのは、室町時代の中ごろに三河国設楽郡菅沼郷(現在の愛知県新城市作手菅沼)に拠点を構えた国人領主であったという点である 。
やがて菅沼氏は、豊川流域へと勢力を拡大していく過程で、多くの分家を創出した 。その中でも特に大きな勢力を持ったのが、田峯城(だみねじょう)を本拠とする田峯菅沼氏 、長篠城を拠点とする 長篠菅沼氏 、そして定盈の家系である野田城を拠点とする 野田菅沼氏 であった 。
これら奥三河の山間部に割拠した有力国衆は、作手の奥平氏と合わせて「山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)」と総称され、今川氏や松平氏といった周辺の大勢力からも無視できない存在感を示していた。
菅沼定顕(すがぬま さだあき)
『松平紀』によれば、永禄6年(1563年)定顕に命じて佐崎(岡崎市)に砦を作らせ、上宮寺から兵糧を奪った事がきっかけとなり三河一向一揆が起こったとされる 。
しかし、『松平記』の記事を全面的に信用することができないとして、菅沼定顕を一揆の火付役的存在とする記事は事実ではないとすることも多い。
菅沼定忠(すがぬま さだただ)?-1582
三河国の国衆・田峰菅沼氏の当主。田峰城主。父は菅沼貞継。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、翌年徳川家康が独立すると定忠は家康より所領を安堵され徳川氏に従属するが、後に今川氏に帰参する。しかし最終的に徳川氏の三河支配が成ると再度徳川氏に従属する。
元亀元年(1570年)12月の武田氏の武将の秋山虎茂が奥三河へ侵攻に対しては殆ど戦わずして早く退却し、城に逃げ入った。
元亀3年(1572年)7月頃に家康に反旗を翻して武田信玄の配下となり、奥平定能や長篠菅沼正定と共に山家三方衆として山形昌景の相備えとなり、三方ヶ原の戦いや野田城の戦いに参加した。
翌年(1573年)徳川氏に離反するが、天正3年(1575年)4月に開始された武田勝頼の三河侵攻では山県昌景の指揮下の元で野田城・ニ連木城攻撃に参加し、長篠城攻撃にも参加した。
長篠の戦いで大敗した武田勝頼を伴い、田峯城での慰労を予定していたが、留守居の親族や家老が入城を拒絶。僅か数騎の勝頼一行は身柄を拘束されそうになった為、更に北方の武節城まで命からがらの逃避行を強いられた。
武田氏滅亡後の天正10年(1582年)に、徳川氏配下の牧野康成と戦い討ち死にしたという。
定忠の死後、田峯菅沼氏の名跡は一族で従弟の菅沼定利が継いだ。
菅沼定盈(すがぬま さだみつ)1542-1604
天文11年、菅沼定村の子として誕生。
はじめ、今川義元に仕えるが、桶狭間の戦いで義元が戦死した後は、三河国の松平氏(後の徳川氏)に帰属した。
永禄11年(1568年)には、家康の遠江侵攻に先立って敵方の懐柔工作に携わり、遠江引佐郡井伊谷の同族・菅沼忠久の調略に成功している。同年12月からの遠江侵攻に従軍、井伊谷の南方・刑部城攻略で功を挙げた。
元亀4年(1573年)正月に、足利義昭の信長包囲網に呼応した武田信玄に攻囲された(野田城の戦い)。定盈は防備を強化した野田城に立て籠り1ヶ月の抵抗を示したが、水の手を断たれたために、2月15日に開城降伏して捕らわれた。
▶野田城(愛知県新城市)

ところが武田軍は信玄の容体悪化により、同年3月の人質交換で家康方への帰参がかなった。
天正3年(1575年)5月には織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼との決戦(長篠の戦い)に参戦。酒井忠次率いる鳶ヶ巣山奇襲隊の一員として戦功を挙げ、武田軍への雪辱を果たしている。
家康の関東移封では、上野阿保に1万石で配される。慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いでは江戸城留守居役を務めた。慶長9年7月18日(1604年8月13日)に死去。
菅沼忠久(すがぬま ただひさ)?-1582
井伊谷三人衆の中で、一番最初に徳川方の調略に応じたのが菅沼忠久です。1568年、一族の菅沼定盈から誘われると、忠久は近藤康用、鈴木重時と示し合わせ、今川氏から離反します。直後の堀江城攻めにも参加した忠久は、のち井伊直政の家臣となりました。
しかし、天正10年(1582年)に死去しており、直政に仕えていた時期は少なかったと考えられます。
その後の菅沼家は、忠久の嫡男である菅沼忠道が継承します。忠道は小牧長久手の戦いや関ヶ原の戦いで活躍しますが、慶長8年(1603年)に38歳で亡くなっています。跡を継いだ菅沼勝利は大坂の陣で活躍するなどの武功を挙げるなど、親子三代にわたって勇名を馳せました。勝利は井伊家の家臣ではなく旗本として200石を領有しており、寛永7年(1630年)に37歳で没しています。
菅沼正貞(すがぬま まささだ)?-1582
三河国の国衆。長篠菅沼氏6代目当主。長篠城主。
当初は徳川家康に従っていたが、元亀元年(1570年)12月に武田氏の武将の秋山虎繁が奥三河へ侵攻しようとすると殆ど戦わずして早く退却し、城に逃げ入った。
元亀3年(1572年)10月に武田信玄による徳川領国への侵攻(西上作戦)が開始されると、菅沼氏本家・田峰菅沼定忠とその縁戚・奥平定能と共に武田氏に従った。
奥三河で進退を共にする誓いを立てたこの3家は山形昌景の与力に組み込まれて山家三方衆と呼ばれ、三河方面を転戦する山県昌景・秋山虎繁の別動隊に加わり各地を転戦した。
天正元年(1573年)7月末には、徳川家康によって居城・長篠城を攻囲され、9月8日には開城降伏を選択。正貞は一命を奪われる事無く、北へ逃れて武田の援軍に合流した。
ところが武田信豊ら援軍の諸将は、正貞が家康に内通していると疑念を抱いており、証拠物件を挙げようとする。内通疑惑は真実であったが、幸いにも証拠は出なかった。それでも、援軍諸将の疑念を晴らすには至らず、正貞の身柄は信濃小諸城にまで運ばれ、幽閉されてしまう。
天正10年(1582年)、正貞は織田信長の武田征伐による武田氏滅亡の前後で獄中死したとされる。正貞の妻も小諸城に軟禁されており、小諸で男子を出産したという。武田氏滅亡後、乳飲み子を伴って家康に対し赦免を要求し、容認された。その後、乳飲み子は長じて菅沼正勝と名乗り、徳川頼宣付けとなった。
菅沼元成(すがぬま もとなり)
菅沼氏庶流の長篠菅沼家2代当主。菅沼満成の次男。今川氏親に部将として誼を通じた。永正5年(1508年)に長篠城を築城し、以降正貞までの五代が代々居城とした。子には嫡男の俊則、次男の俊弘は都田菅沼家の初代当主となった。
杉原家次(すぎはらいえつぐ)1530-1584
秀吉の正室・寧々(高台院)の母・朝日殿の兄で、伯父に当たる。
秀吉が長浜城主に立身出世するとその家老となった。この頃の『竹生島奉加帳』を見ると、寄進した10石というのは家臣内で家次が一番多く、すでに筆頭格であったことがわかる。
杉原定利(すぎはら さだとし)?-1593
妻は杉原家利の娘のこひ(朝日殿)で、婿として杉原家に入った。
子女は嫡男の木下家定、三折全友の正室・長慶院(くま)、豊臣秀吉の正室・高台院(ねね・寧々・お禰)、浅野長政の正室・長生院(やや)、男子1人らがい
当初は織田信長に仕え、後に秀吉に仕えた。
杉若無心(すぎわか むしん)?-?
越前国の出身で、朝倉氏の家臣だったとされる。天正13年(1585年)、羽柴秀吉の紀州征伐に従い、羽柴秀長に従って湯川直春の芳養泊城(泊山城)を攻略した。戦後は紀伊国田辺の領主となり、泊山城に拠る。天正18年(1590年)に新たな居城として上野山城を築き、また城下町の整備を行った。文禄年間(1592年‐1595年)に家督を氏宗に譲る。秀保が死去すると、秀吉に直属して19,000石を領した。
文禄の役では、氏宗の舟手組頭として650の兵を率いる。慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで氏宗と共に西軍に属し、改易された。その後は京に住み、慶長7年(1602年)頃までは公家と交際していたようである。
鈴木重時(すずき しげとき)1528-1569
菅沼忠久の妻の父親
忠久との関係もあり、家康の遠州侵攻に際して調略に応じた鈴木重時ですが、その直後の堀江城攻めにおいて、近藤秀用と一番乗りの功名を競い合ったものの、敵兵の攻撃により討死しています。享年は42歳でした。
跡を継いだ子、鈴木重好は井伊直政の家臣となっています。しかし、その後に家中で不正を起こした事を咎められたり、関ヶ原の戦いの後に井伊家が担当した長宗我部家の領土である土佐の明け渡しにおいて一揆を起こされた背景もあり、井伊家を退去する事になりました。
その後の重時の子孫は、元和4年(1618年)に徳川秀忠の依頼を受けて水戸徳川家に仕える事となりました。寛永12年(1635年)に水戸で亡くなった重時の子孫は、水戸徳川家の家老として活躍したと言われています。
鈴木重秀(すずき しげひで)?-?
戦国時代から安土桃山時代にかけての紀伊國で活躍した武将で、鉄砲傭兵集団「雑賀衆」の有力者として知られています。
彼は「雑賀孫一」として知られ、石山会議で活躍しました。重秀は、雑賀衆の頭目と認識されていますが、実際には雑賀衆全体を統率する指導者ではありませんでした。彼の名は「本願寺文書」に自署があることから、石山合戦で活躍した鈴木孫一が鈴木重秀であるとされています。
崇徳天皇(すとくてんのう)1119-1164
平安後期の天皇。鳥羽天皇の子。後白河天皇の兄。
1123年即位したが,鳥羽上皇により近衛(このえ)天皇へ譲位をしいられ,1141年退位して上皇となり新院と称した。近衛天皇死後も自分の子重仁(しげひと)の即位は実現せず,後白河天皇が即位した。この不満から1156年保元の乱を起こしたが敗れて讃岐(さぬき)に流され配所で没したが,その怨念で怨霊になったと世人に恐れられた。
諏訪頼忠(すわ よりただ)1536-1605
天文5年生まれ。諏訪頼水の父。天正10年武田氏、織田氏の滅亡後、千野氏ら旧臣に擁立されて諏訪市の旧領を回復。のち徳川家康に属して小田原攻めに活躍、信濃高島藩の基礎をきずいた。慶長10年8月11日死去。70歳。通称は小太郎。
▶高島城(長野県諏訪市)

瑞龍院妙慧日秀尼(ずいりゅういん みょうえ にっしゅう に)
1524-1625
豊臣秀吉の同父姉、秀長と朝日姫の異父姉。夫は三好吉房で、秀次・秀勝・秀保の生母。
諱は智(とも)。位記上の本名は智子(ともこ)とされる。日秀は出家後の法名(法諱)。字は妙慧(みょうえ)。道号は村雲で、通称に村雲尼(そんうんに)。院号は瑞龍院(ずいりゅういん)。
せ
関口氏純(せきぐち うじずみ)?-?
今川氏最盛期を築いた義元の重臣。
今川氏に仕える瀬名氏の3代目・瀬名氏俊(うじとし)の弟とされ、同じく今川氏の重臣・関口氏の養子となったとされます。
今川義元の妹もしくは伯母とされる女性を妻とし、駿河国・瀬名館に住み、この地で娘を授かりました。瀬名館で誕生したことから「瀬名姫」と呼ばれた彼女は、後の家康の正妻「築山殿」です。
氏純は持舟城主となり、「桶狭間の戦い」で今川義元が敗れた後も、今川側へ留まり、衰退していく今川氏を支えました。しかし、家康との内通を疑われ、氏純は妻・巴とともに自害に追い込まれたといわれています。
仙石秀久(せんごく ひでひさ)1552-1614
初め織田信長に仕え、1574年(天正2年)近江野洲郡に1000石を得、80年淡路洲本に5万石を領した。
のち豊臣秀吉に仕え、85年四国征伐の功によって讃岐(香川県)を得て高松城主となる。翌年、九州島津攻略の先発となったが敗れて一時所領を没収され、高野山に謹慎した。
90年家康を頼って小田原攻めに加わり、功あって信濃小諸城主となり、5万石を領した。1600年(慶長5年)関ケ原の戦いのとき徳川秀忠に従い、上田城攻略に加わった。1706年(宝永3年)子の政明のとき信濃上田から但馬(兵庫県)出石(いずし)藩に入り5万8000石を領した。
千利休(せんのりきゅう)1522-1591
安土桃山時代の茶人。茶道(ちゃどう)の大成者。千家流(三千家)の開祖。堺の生れ。通称与四郎,宗易と号す。晩年は不審庵とも号した。
初め茶の湯を北向道陳に学び,のちに武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事。織田信長に仕え豊臣秀吉に重用された。1585年秀吉が禁中茶会を催した際に利休居士という号を与えられ天下一の茶人の地位を確立し,1587年北野大茶湯をつかさどった。草庵風の茶室を完成し茶道を民衆の生活のなかに根づかせた。1591年秀吉の怒りにふれ切腹を命じられた。大徳寺に自像を置いたためなどとされるが,原因については定説がない。
