「長篠の戦い」の関連史跡:山県昌景の墓

史跡

⑮ 山県昌景の墓

武田四天王の一人。」武田軍の左翼に陣を敷き先陣を切って、弾正山の徳川家康の本陣へ向かって攻撃しますが、敵の弾丸に馬を撃たれ落馬。
家臣の志村又右衛門によって胴切山に運ばれますが、すでに死亡していました。
臨終の際、故郷に帰りたいと家臣に伝えたため首は山梨へ、胴は後日、ここに葬られました。
山県甚太郎昌次、従士名取又左エ門道忠、高坂又八郎助宣の墓もあります。

山県昌景 永正12年(1515年)/享禄2年(1529年) – 天正3年5月21日(1575年6月29日)

武田家の譜代家老の飯富虎昌の弟とされるが、甥であるとも言われます。昌景ははじめ武田信玄近習として仕え、続いて使番となります。
確実な初見史料は弘治2年(1556年)8月2日で、昌景は飯富源四郎として水科修理亮に対し与えられた信濃善光寺との往来に関する諸役免許の朱印状奏者を務めています。

永禄6年(1563年)、三郎兵衛尉を名乗る。その後も順調に戦功を挙げて、譜代家老衆に列せられて300騎持の大将となったといいます。
永禄8年(1565年)10月には信玄の嫡男の武田義信と彼の傅役だった虎昌が謀反を起こし、10月15日に虎昌は成敗されます。
虎昌の赤備え部隊を引き継ぐとともに、飯富の姓から信玄の父の信虎の代に断絶していた山県(山縣)氏の名跡を与えられて山県昌景と名を改めたといわれます。

その後も、信玄側近として諸役免許や参陣命令、寺社支配など武田氏朱印状奏者としての活動が確認されるほか、美濃国の遠山氏、三河国の徳川氏など遠方国衆や松尾小笠原氏・室賀氏・赤須氏などの信濃国衆や三枝氏・横田氏など甲斐武田家臣との取次を務めている。永禄11年以降は蘆名氏との取次を務める。
永禄12年(1569年)には駿河江尻城代に任じられた。  ▶江尻城(静岡市清水区)

元亀3年(1572年)10月、信玄が「西上作戦」を開始すると、秋山虎重とともに別働隊を率いて信濃から三河に侵攻したといいます。
武田氏に従属した菅沼氏奥平氏など奥三河国衆は山県の指揮下に組み込まれていたため、これらに先導させて三河東部の長篠城経由で浜松方面へ進軍。浜松城を圧迫する下地作りを完了させた上で信玄本隊に合流しました。同年12月22日には武田勢と三河の徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが発生し、『甲陽軍鑑』では山県勢が崩れかかったところを武田勝頼が助けたとする逸話を記しています。

信玄は死去の際、「わしの死を3年間秘せ。そして勝頼を補佐してくれ」、「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命を託されるほど信玄の信頼は厚く、馬場信春とともに重鎮の筆頭として信玄の嫡子の武田勝頼を補佐することになります。しかし、勝頼との折り合いは悪く、疎まれたといわれます。

勝頼の家督相続後、天正元年(1573年)8月21日には三河長篠城(愛知県新城市)への後詰の指揮を命じられている。
『甲陽軍鑑』『当代記』によれば、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは山県や内藤昌秀・馬場信春・原昌胤らが撤退を進言したが、勝頼と側近の長坂光堅(釣閑斎)跡部勝資が決戦を主張し、勝頼は決戦を決断したといいます。
そして5月21日の設楽原決戦では、『甲陽軍鑑』や『長篠合戦図屏風』によれば内藤昌秀・原昌胤らと武田軍左翼の中核を担います。
『信長公記』『松平記』『大須賀記』によれば武田勢の攻勢は九ツ始め(午前11時)に始まり、左翼の山県勢が徳川軍を襲撃。『信長公記』によれば山県勢は「一番」に攻撃を仕掛けますが敗退し、『信長公記』『松平記』によれば武田勢は未刻(午後2時頃)には退却し、山県、真田信綱ら武田勢の武将は追撃戦の最中に戦死したといいいます。
享年47。高野山成慶院『甲斐国供養帳』には山県の戦死時刻を「未ノ刻」と記しています。

山形昌景は朱色の甲冑で統一された部隊・赤備え(あかぞなえ)を率いており、武田家滅亡後、その赤備え軍団の多くは徳川家に召し抱えられ井伊直政に預けられました。
世にいう井伊の赤備えは武田軍の山県昌景の赤備えを引き継いだものなのです。

アクセス

住所:愛知県新城市竹広498

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