⑫ 小幡信貞の墓
小幡信貞と小幡一族はここで、ことごとく討死し、お墓があると思いますが・・・
討死せずに生き残りました。

大怪我はしたみたいなのですが無事に武田領に戻り、その後、織田信長が甲州征伐が始まるといち早く織田信長に降伏し、その後は滝川一益の配下となります。
本能寺の変後は北条氏邦の家臣として働きますが、豊臣秀吉により北条が滅びると旧友を頼り真田昌幸の元へ行き、信濃塩田郷で余生を送ったとされています。
古戦場にある墓は、この戦いで戦死した小幡憲重(父)の墓とも信貞の弟のものともいわれるが、明確ではありません。


小幡信貞 天文10年(1541年) – 天正20年11月21日(1592年12月24日)
父は国峰城主・小幡憲重(重定)。母は箕輪城主・長野業正の娘。
上野小幡氏は国峯城を中心とし上野国甘楽郡一帯に勢力を持つ国衆で、関東管領の山内上杉氏に仕え長野氏と並ぶ有力な存在でした。しかし、後に上杉憲政と対立すると離反して武田晴信(信玄)に仕えた。
永禄3年(1575年)の長篠の戦いにも参陣。この際に信貞が戦死したという伝承があり、実際に信貞が戦死したという風聞もありました。しかし、実際には戦後存命しており、武田勝頼から信貞・昌高兄弟の負傷を案じる書状が確認されている。
天正10年(1582年)武田氏が織田信長によって滅ぼされると、信長軍に降伏。
上野の有力国衆の中では最も早く織田氏に従属したとみられ、甲州征伐の仕置後は滝川一益の与力として配属させられた。しかし、本能寺の変後は、北条氏直が織田氏の勢力を上野から駆逐したため、信真は氏直に降伏した。その後の天正壬午の乱では北条軍の先手として信濃に出兵した。
その後は北条氏邦の指南を受け、北条氏配下の他国衆としてその臣下となった。
天正18年(1590年)の小田原征伐では国峯城に籠城し、4月下旬頃には落城したとみられる。その後、武田氏時代を通じて親交があり、小田原征伐で攻城側でもあった真田昌幸を頼り、信濃塩田郷で余生を送った。天正20年(1592年)に死去。享年52。
アクセス
住所:愛知県新城市竹広86−1
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