⑦ 松尾山眺望地
松尾山眺望地は、大谷吉継陣跡から東に向かって、小道を数分たどったところにあります。
この場所は、正面の小山の向こうに松尾山を望み、山頂に立つ小早川秀秋の軍旗も確認することができました。
関ケ原の戦い当日の正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷隊を攻撃します。しかし、吉継は初めから小早川隊の謀叛に備えていた直属の兵600で迎撃し、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力して、兵力で圧倒する小早川隊を2、3回と繰り返し山へ押し戻したといます。
秀秋はこれを見て自ら指揮を取って本隊を進めさせ、大谷隊と激戦に及びます。
その激戦ぶりは、東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからもうかがえます。
だが、吉継の与力であるはずの脇坂・朽木・小川・赤座の4隊が東軍に寝返り、大谷隊に横槍を仕掛けます。これにより、大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け、防御の限界を超えて壊滅。
これにより、主だった家臣らは皆討死し、吉継もその場で自害しました。なお、吉継を解釈したのは、家臣の湯浅五助(隆貞)でした。
ギャラリー




アクセス
住所:
岐阜県不破郡関ケ原町藤下
電車🚉
JR東海道本線 関ケ原駅より約2.0Km
(関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)
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