⑤ 東首塚
関ケ原の戦い後、徳川家康が首実検をしたのちに東西2ヶ所に埋葬したことから「東首塚」と呼ばれています。
当時この地の領主であった竹中重門が、家康の命により関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬しました。この首塚に埋められている戦死者の数は定かではありません。
しかし、関ケ原の戦いは西・東計15万人の兵による戦いであったため、数多くの戦死者が眠っているものと考えられます。
ギャラリー






アクセス
住所:
岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原908-3
電車🚉
JR東海道本線 関ケ原駅より約400m
(関ケ原駅前からレンタサイクルで各史跡を巡ることをお勧めします)
関連スポット
◆「西首塚」については、こちらもご覧ください。

「関ケ原の戦い」の関連史跡:西首塚
「西首塚」は、J「東首塚」と同様、当時の領主・竹中重門が徳川家康の命により、関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬しました。JR東海道本線の敷設の際に埋葬されていた白骨が大量に出て、胴塚とも呼ばれる「西首塚」についてご紹介しています。
「関ケ原の戦い」関連史跡めぐりコース
◆「関ケ原の戦い」に関連する史跡巡りコースをご紹介しています。
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「関ケ原の戦い」の関連史跡めぐり
徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)が戦い、戦いに勝利した家康が天下を握ったことから「天下分け目の戦い」ともいわれ、歴史上有名な戦いの1つにあげられる関ケ原の戦い。その戦いに参加した武将の陣跡、開戦地などの史跡を巡るコースを紹介しています。
関ケ原の戦いについて

徳川家康25 関ヶ原に向けて・・・上杉討伐と三成の挙兵
慶長五年(1600)五大老の一人であった上杉景勝に謀叛の嫌疑が掛かり、さらに、石田三成が挙兵します。上杉討伐に出馬中の豊臣諸将は小山(栃木県小山市)に集結。所謂「小山評定」で三成との決戦が決定。関が原合戦に向かう過程を解説しています。

徳川家康26 小山評定から関ヶ原へ
家康が会津の上杉征伐へ向かっている最中、石田三成が挙兵します。家康は諸将を呼び寄せた小山評定で三成との決戦に決します。福島正則や池田輝政は岐阜城を落とし、家康も合流し、関ヶ原に向かいます。三成の挙兵から関ヶ原に至る過程を解説しています。

徳川家康27 関ヶ原後の諸大名の処遇と徳川体制への布石
関ヶ原の合戦に大勝した家康は戦後処理を進めます。西軍の主要メンバーは戦死した大谷吉継を除き、市中引き回しの上処刑。東軍の主力であった豊臣大名は大幅な加増となりましたが、遠隔地へと転封となります。家康がいかに自らの体制を築いていったか解説しています。



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