「長篠の戦い」の関連史跡:原昌胤の墓

史跡

⑭ 原昌胤の墓

原家は代々武田譜代の重臣で、戦時には陣場奉行として、平時には土木技術に特技を持つ家として重きをなしていました。

設楽原で昌胤は、武田軍の最左翼・山県昌景の隣に甘利信康ととともに、兵約1000を率い布陣、徳川家臣・大久保忠世大須賀康高隊と戦います。
昌胤は、山県とともに9回突撃するも、大久保、大須賀の必死の抵抗に合い柵を破れませんでした。

山県が討ち死にしたことを知った昌胤は、武田軍左翼を維持するため、壊滅状態の山県隊を吸収し、踏みとどまりますが、なおも、織田鉄砲隊の一斉射撃が続き、昌胤も大量の銃弾を浴び、討ち死にします。

甲府盆地の中央を流れる釜無川の暴流を防いでいる信玄堤も、原昌胤らが十六年を費やして完成させたもの「将棋頭」「霞堤」の名前とともに、堤は今尚当時の姿をとどめています。

碑文は「隼人佐」ですが、甲州では「隼人佑」です。

原昌胤 享禄4年(1531年?) – 天正3年5月21日(1575年6月29日)

原昌俊の嫡男として生まれる。昌俊・昌胤の原氏は美濃土岐氏の庶流といわれ、武田家中には足軽大将原虎胤がいるが、虎胤は千葉氏一族の原氏の出自で別系統であるという。

天文19年(1550年)に家督を継ぎ、陣馬奉行を務め120騎を指揮したという。

初見文書は弘治2年(1556年)11月で、信濃侵攻における甲斐衆小池氏の下伊那出陣に際した証文に名が見られ、信玄側近として朱印状奏者として名前が確認される。
永禄4年(1561年)の西上野侵攻においては土屋昌次らとともに上野国衆への取次を務めている。

永禄12年の駿河侵攻において昌胤は富士山本宮浅間神社や静岡浅間神社などの寺社支配を行っており、また今川方の富士氏の大宮城周辺の支配に関わっていたため大宮城の城代を務めていた可能性を指摘するものもある。

時期・経緯は不明であるが一時期失脚し、元亀元年(1570年)以降・元亀3年(1572年)以前に北条家臣で臼井原氏麾下の完倉兵庫介が仲介し赦免されたという。
天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて戦死。

アクセス

住所:愛知県新城市竹広

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 新東名高速道路新城ICから約2.5km
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 JR飯田線 三河東郷駅から徒歩15分

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