「長篠の戦い」の関連史跡:土屋昌次の墓

徳川家康

⑪ 土屋昌次の墓

甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。武田二十四将の一人に数えられる。

長篠の戦いで、信長自らの出陣を知って、信玄時代からの重鎮たち、山県昌景馬場信春内藤昌秀らと共に撤退を進言したと言われているが、武田勝頼は決戦を行うことを決定する。

戦が始まると、真田信綱真田昌輝と共に右翼の天神山に陣を敷いた。大宮前激戦地で織田勢の三重柵の二重まで突破したが、一斉射撃を受け戦死したという。享年31。


昌続の首は、従士の温井左近が手早く切り落として持ち帰り、信州まで逃げようとしたが逃げ切れずに、首を埋め、自分も腹をかき割って殉死したという

土屋昌次 天文15年(1545年)? – 天正3年5月21日(1575年6月29日)

金丸筑前守(虎義)の次男「平八郎」として生まれる。金丸氏は清和源氏流武田氏一門で、甲斐守護武田信繁の子、金丸光重を祖とする。筑前守は譜代家老で、板垣信方と並び武田晴信(信玄)の傳役(もりやく)であったという。
平八郎は武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)、三枝昌貞、曽根昌世、甘利昌忠、長坂昌国らと「奥近衆六人衆」の一人として信玄の傍近くに仕えた。信玄は奥近習六人衆を寵愛し、それぞれに「昌」の字を与えた。平八郎は昌次と名乗ることとなる。

永禄4年(1561年)の上杉謙信との第四次川中島の戦いで真田昌幸とともに初陣を飾る。共に本陣中央に備えた。この時17歳。
永禄12年(1569年)の北条氏康との三増峠の戦いで箕輪城代・浅利信種が戦死すると、浅利同心衆(赤備え)同心70騎と駿河先方衆30騎を付され100騎の侍大将となる。相備えとして付けられると同時に甲斐名門の土屋家を継ぎ土屋昌次を名乗り、黒地に白鳥居の旗印を授かったという。22歳での侍大将への抜擢は異例であった(馬場信春51歳、山県昌景41歳、内藤昌秀41歳)。この時、昌続以外の奥近衆六人衆は15騎から30騎の足軽大将であった。
元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは、鳥居忠広と一騎打ちをした。鳥居忠広は豪の者として知られているだけに、一刀の下に昌続の甲を打ち割った。昌続の兜は幸い明珍星兜であったので、甲は割れたが頭はかすり傷ひとつなく、組み打ちとなり首を討ち取った。この合戦は敵味方入り乱れての激戦となり、双方手助けのかなわぬ中、豪の者であった鳥居を昌続1人の手で仕止めたとあって、武名は一段と上がった
元亀4年(1573年)、武田信玄が阿智村駒場で死去した際には殉死しようとしたが、高坂昌信に説得を受け、思いとどまったという。信玄の遺骨は昌続が甲府に持ち帰り、自分の屋敷の庭先に埋葬した。現在その地が、甲府での信玄の墓所となっている。3年後にその遺骸を掘り起こして、信玄の菩提寺・恵林寺に正式な墓を移した。
天正3年(1575年)の長篠の戦いで、戦死。
昌続には男子がいなかったため、弟の土屋昌恒が土屋家の名跡を継いだ。

アクセス

住所:愛知県新城市八束穂951-3 

クルマ🚙
 新東名高速道路 新城ICから約1.5Km

電車🚉
 JR飯田線 三河東郷駅から1.2km

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